サブカルチャー化する仏教

物ではなく心の時代だと言われるようになって、早二十年以上が経った。
しきりに、心の大切さが説かれる中で、仏教は、これこそが日本人にとって大切なものだとして、さかんにほめ上げられてきた。


そうした中で、仏教教団は宗派を問わず、その恩恵にあずかってきた。
だが、それは往々にして、ひたすら受身的なものではなかったか。
何か積極的に時代を捉えようとした発言や行動があっただろうか。


もちろん、仏教の大切さ、伝統の大切さを説いた僧侶がいなかったわけではない。
しかし、それらは心が叫ばれる時代に、いわば流されただけのものではなかっただろうか。高度成長期以降の仏教教団にとって、深刻な問題は、もはや仏教教団が自らが時代を見据えた立ち居振る舞いをすることが出来なくなったことにあると思える。
 

心の時代において人々が求めているのは、今、この時代を生きるヒントである。
口を開けば伝統の大切さを説くだけのお説教など、求められてはいないのだ。
だが、ほとんどの僧侶の口から出てくるのは、相変わらずの教理教説、教相判釈である。そこにあるのは時代を見据えたまなざしではなく、ただ漫然と手拍子を打ち、それで何かを語ったと思い込む単なる自己満足である。


そうした状況に最も敏感なのが、当の人々である。
そして、その人々の「仏教教団では満たされない、仏教への思い」をすくい上げているのが、あまたの仏教関連書籍である。
書店には、入門書から概説書、釈迦の教えから各開祖の教えまで、あらゆる仏教書が並んでいる。
――まさに、書店法輪とでも言うべき状況である。


しかし、それらの本を手にした人々が改めて教団に関心を寄せるということはほとんどない。本でその関心を満たし、あるいはそれらの本の多くに含まれている、精神世界的な主張に共感し、新興宗教に心を寄せるようになることもある。
事実、今売られている仏教書には、その内容を見るに精神世界的、新興宗教的な主張を持つものが少なくない。


それらの本の中で語られているかに見える仏教は、その実、教団からは極めて遠いものとなっているのだ。その内実を確かめもせず、仏教ブームに心安らいでいる僧侶の姿は、こっけいですらある。


そうした現実を見るに、日本における仏教とは、
もはや文化の中核を担うメインカルチャーなのではなく、
周辺を取り巻くサブカルチャーとして存在しているのではないかと思われるのだ。