「コミュニケーション」の脱神話化

田嶋陽子は「死んだ」、上野千鶴子も「死んだ」〜
まさに今現在、世間にWebに吹き荒れる、「コミュニケーション」信仰に対する、「脱神話化」へのクリティカルな一撃。
■[非モテに捧げる駄文]⑤「帰ってきたもてない男」の「グロテスクな教養」2


ネット右翼的な振る舞いが、鈴木謙介が指摘するように、結局「戦後民主主義」的な悪平等観念に基づいた群集心理――「学級委員会的平等主義」であるのと同様に、
この社会に残された最後の輝ける宝玉としてその威光を誇っていた「コミュニケーション能力」も、その皮一枚めくってみれば、なんのことはない、「ウヨ」「サヨ」と同様の「悪平等主義思想」でしかなかったという指摘。


この指摘がまさに、文中で「語ることのできない階層」(=サバルタン)だとされる「非モテ」の見地からなされていることは、ジェンダー研究あるいは差別構造の研究において、新たな展開が要求されているということの証拠ではないのか。


そう、すでに田嶋陽子は「死に」、そして上野千鶴子も今ここに「死んだ」のだ。


――かつて、Web上の言葉は「便所の落書き」といわれた。
だが、われわれ人間のすべては、その忌み嫌われる場所で露わにされる、汚らしい排泄器官から生まれ来たのではないか。


そう、われわれは皆便所から生まれたのだ!
何を恥じ入る事があろうか。


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「ただお勉強ができる」ことは日本では明治以降恥ずべきことであり、学歴のある人間は「いかにお勉強以外のことができるか」を示すのに躍起であり、そのひとつの手段が教養であった、と言うのだが、その日本的教養のあり方はまさに「モテない」要素として今では否定されてしまったことを筆者は述べている。

この指摘*1は、先に言った「まじめさ」という病理と「惰性」という社会性に通じる。
「まじめさ」や「おとなしさ」が、「コミュニケーション能力」偏重によって確実に否定されていくこの日本社会の抱える異様な姿は、明治期からあったということか。
心底思うのは、日本の歪んだ現実、歪んだ社会構造のすべては「維新」の名で勇ましく語られる明治期に由来しているということだ。
そのクダラナい二字熟語を掲げた人間が未だにいることには、腹の底から反吐が出る。

また、日本で「コミュニケーション能力」が重視されてきたのは、明治以降ずっと続いており、まさにこれが「実務重視」と完全に結びついているのだという。

「軽さ・薄さ・明るさ」の三原則の強要――まさに強要だ。そこには「個性の尊重」という近代的な原理はまったく適用されない。
「コミュニケーション」という名の「神」に対する無謬性の付加が、いったいどのような歪みを生んでいるのかという、その事実にすら目を向けられないこの世の中。
これは「部落」や「在日」よりもはるかに広範で陰湿な、日本における差別の構造だと言っていい。

日本では「コミュニケーション能力」さえあれば、仕事も女も思いのまま、らしい。「」の中にいかがわしいアイテムの名称でもいれてみると、この発想のいかがわしさが知れる。ためしに「教養」とか「学歴」とかいれてみようか(w

かのブルワーカーのコピー「まっ・たく・カン・タン・だ!」とはよく言ったものだ。
要するに、「普通」を自称して恥じないようなタイプの人間は「コミュニケーション真理教」の「信者」でしかないということだ。


だが、このリンク先の文章のすばらしい点は、

ある「能力」を誰もが手にいられれると言うのは、どうしようもない欺瞞であり、まさに「神話」である。努力すればある「能力」を得られるとすれば、その努力できるか否かの点でまさに「素質」が問われるハズだが、「コミュニケーション能力」論者には当然この視点もない。
 (中略)
人間社会を本質的に成立させているとする「コミュニケーション能力」にそもそも生まれついての優劣があったとしたら、そもそも人間は救い難く不平等であるという事実に直面する。
 (中略)
生まれついて「能力」がある人間が、欺瞞的にそれを隠すために「コミュニケーション能力」は誰でも入手できる「神話」であるべきなのだ。

このように、それを「神話」と言い切った後で、その機能の効果をも視野に入れているという点だ。
それが、「欺瞞」であるとしても社会を構成するために、人と人とをつなぎとめるためには、「最低限の共通項を生む可能性」が必要不可欠であることは、幸か不幸か、否定できない。
――その「最大公約数」が、過剰に信仰されている現状は、不幸そのものであるといえるのだが。

「コミュニケーション能力」は誰もが手に入れられる物だから、これを持っていない者は弱者でも何でもない。ただ「怠惰」で持っていない者なのだ。だから上野千鶴子室井佑月さとう珠緒はあんなことが言える。もし、同じことをいわゆる社会的弱者に対して言ったとしたら、彼女らは社会的に抹殺されるだろう。

そう、彼女らが死ぬのは今これからだ。

社会的弱者はなぜ社会的弱者なのか?その「弱点」を本人の努力だけでは社会的に克服できないからである。そう社会的に認知された存在が社会的弱者である。そして、その不遇な環境は克服されるべきであると周知されてもいる。「コミュニケーション能力」に欠如した人も、本来は社会的弱者だが「正式」な社会的認知を受けていないため(仲間内で言っているだけ)なので、ある意味最も差別された存在である。

「語ること」も許されないこの差別の構造と現実は、まさに「サバルタン」と呼ばれるものに相当する。このことだけ取ってみても、日本の思想界――論壇といわれる試行空間が、現実に対して何の実効力も与えられていないことが明らかになる。
いくら西洋のありがたい経文を読みこなし、それを写経したとしても、浮世の苦しみが晴らされることには決してつながらない。
――その事実を忘れるために、彼らは写経に没頭するのだろうか?あるいは、自らの「救い」を得るための「自力」修行なのだろうか。


そう、そして、

ただ、「コミュニケーション能力」のある人たちは非モテを放置してほしい、それだけなのだ。「オナニーして死ね」とか「アキバ系はキショイ」とか、公の場で言ってはならない、言うべきでない、それだけだ。

こんな当たり前で単純な社会的な礼儀作法すら、「コミュニケーション真理教」の信者どもには通じないのだ。


しかし、この最後の一文にだけは同意できない。

「コミュニケーション能力」に欠如した人、すなわち非モテは永遠にこのままなのだ。

なにも、うわっつらの慰めを言おうというつもりではない。
どうにも感じるのだ。
そもそも、この「コミュニケーション信仰」の中に、「コミュニケーション」は不在ではないのか、という思いを。
――それは、この「神」を否定する脱神話化の流れにも沿うものだと思うのだが、それはまた別の機会に。

*1:これは、『帰ってきたもてない男』の記述