「モヒカン族」という「信じてフューチャー・限界チャレンジャー」
〜ペンギンの子供はまっくろけだけど、普通にイメージされるペンギンは白とか黒とか黄色とか〜
珍しくおもしろい調子のトラバをもらったので、せっかくなので反応してみる。
気楽ついでにクソくだらない事を書けば、モヒカン族、というのはラストオブモヒカンで有名な方でない奴だが、あれってのは黒木玄掲示板とかの、virtual avenue系掲示板文化のアレとはあんまり関係ないのかしら。
ああいう感じを揶揄したものとばっかり思っていたが。
というわけで、http://d.hatena.ne.jp/umeten/20050712/p1は遠近法的倒錯を起しているのではあるまいか、と。そもそもインターネットって学術用途で発達したネットワークだし。
とすると、そのようなアカデミックな振る舞いがモヒカン族として有徴化されるってのはネットの趨勢が学術的な方向から外れつつある事の証左と捉えた方が多分正しい。
とまあこんな感じなつっこみを受けたのだが、わかりにくいので要約してみると(いや十分短いんだけどね)、
(1)、ネットで論理「的」な事を書けば、はてな内では「モヒカン族」と認定呼称される。
(2)、その呼称は、*1まじめぶった連中を、2ch崩れが皮肉ったものだと思っていた。
(3)、umetenは、その「モヒカン族」的言説及びそれに付帯するインターネット上の状況をアカデミズム的と評していたが、そもそもインターネットとは学術目的で開発されたシステムなのであるから、いまさらアカデミズム的と指摘するにはあたらないのではないか。
(4)、そうすると、アカデミズム的現象が、皮肉的・揶揄的な「モヒカン族」という形で現れる現状は、umetenの指摘とは逆に、インターネットがアカデミズム的な性格から離れていることを示している。
とまあ、こんな感じか。
さて、いきなり根本的なことを言ってしまうと、この両者の間には「アカデミズム」に対する認識の差異、あるいは「アカデミズム」に対する評価の隔たりというものが、大きな溝として存在しているものと思われる。
加えて、かの論拠として一番弱いと思われるのは、インターネットに対する「本質」論的な部分、つまり、「インターネットとは学術目的で開発されたシステムなのであるから、いまさらアカデミズム的と指摘するにはあたらない」という部分である。
ここで、サブタイトルのペンギンが意味を成してくる。
生まれたばかりのペンギンの子供はまっくろけだけど、普通にイメージされるペンギンには白とか黒とか黄色とかパンクヘアとかいろいろありますよ?ということを、インターネットの現状とその期限に対する比喩として持ち出してみるわけだ。
つまり、確かに、はじめは黒一色だったかもしれないペンギンも、大きく成長した後になると、さまざまな色・形を持つことのほうが「普通」だと受け止められているのではないか、ということである。
たとえば、ビデオテープであれば、それも「そもそも」映像記録用として作られたのかもしれないが、一般化したのはアダルトビデオというエロメディアとしての機能を果たしたからだ、とも言われたりする。インターネットも、それと似たようなことではないのだろうか。
――おや?ヘンなクッキーがいっぱいだ*2。
「とすると、」(3)、(4)、の部分は、少しあやしくなってくる。
インターネットとは、誰が「そもそも」論を持ち出して大上段に構えたところで、「そもそも」アカデミズムだと認識されたことのない「場」だとしたほうが、正しい評価に近い、といえるのではないかということである。*3
さて、さらに言うならば、それらの前提となる(1)、(2)、の部分についても疑問を挟まざるを得ない。
id:K_NATSUBAさんは、ネット特有、あるいはY世代特有の「シニカルなマジ・スピリット」というものをお忘れかと思われる。
「日常の祝祭化」が「21世紀的な現象」だとする鈴木謙介の見解には、これまで何度も真っ向から反論しようとしてまっとうにできずにいるが(だってエネルギーが足りないんデスよ)、少なくともネット上の「祭り」存在に関してまで否定するつもりはない。
日々繰り返されるVIP達のあの無駄なエネルギーの発散のテラヤバスな本気さを見るがいい。彼らのあの「男には無駄とわかっていても(以下ry」的な車田正美イズムを地で行くような姿を、私は島本和彦的な炎を背負って涙して見守っている。
――そして時々参kqあwせdrftgyふじこlp
さらに、「モヒカン族」とは「そもそも」が「自称」なのであり、揶揄や皮肉といった「他称」では「そもそも」なかったということを思い起こすならば。
「モヒカン族」とはつまり、マージ・マジ・マジーロというあほな呪文で、本気で変身してしまう「信じてフューチャー・限界チャレンジャー」であったわけなのだ。