「メガネ男子萌え」に関する自らの過剰反応について

■[セクシュアリティ]メガネ男子萌えに対して猜疑心バリバリの方へ1つの質問を読んで、

『ああ、信じられない、信じられませんともさ!!「メガネ男子」萌えなどこの世には存在しないのですよ!』

とか、

全部嘘さ、そんなもんさ、ミクの女は幻〜♪

とか、


なーんか自分が結構なオーバーアクションっぷりを気がついたら発揮していたことに、イマサラながら気づく。なぜだろうなぜかしら。


確かに、信じられないことは信じられない。というか、そもそも「それ」が何なのかイマイチ分からない。しかし、「やはり、自分が男だからだろう」、とかいってしまうとそれで話が終わりそうなので「それはともかく」ということにしよう。


この猜疑心の源泉について、id:rAdioさんは、

書籍化云々には関係なく、メガネだ何だというルッキズムの無自覚で能天気な全面肯定が気に食わない。

と指摘しており、また自分でも

このような欺瞞に満ち溢れたムーブメントを世の中に広めること自体が、ラブハラスメントなのだということがなぜわからん!!

といったりしてした。


これらはつまり、露骨な容姿差別のコミカルな発露に対する、構造的批判、本質批判に類するものだといえよう。そして、それはそれなりに正しい、ハズである。


だが、どうだろう。
それが「萌え」の一種であるというのなら、
そもそもそれが「萌え」の一種である「眼鏡っ娘」に対するカウンター的状況から発生したものだとするならば、
さらに俯瞰すれば、その周囲にはさらに幾重にも重なった、さまざまのフェティシズム的な「萌え」の数々(ミニスカとかセーラー服とかブルマとかスク水とかメイドとかポニーテールとかツインテール*1とかグドン*2とかニーソとか絶対領域とかゴスロリとか甘ロリとか……*3)が存在していることを思えば、


それらは圧倒的に、「男性側から女性側へと向けられたまなざし(=尺度)」ではなかっただろうか。
――「勝手なモノサシ」を先に振りかざしていたのはどちらであったか。


さらに、
「萌え」の範疇を超えて、広く「ルッキズム=容姿主義」の問題としたとしても、このメディア社会の中で、女性に対して向けられる幾本ものルキッズムの槍の存在を省みたとき、はたしてあれほど大きな声を出す権利が、自分にはあったのだろうか。


別に、常日頃「萌え」を振りかざしているわけではなく、どちらかというと「燃え」に傾斜している*4ような気もするのだが。






もし先のリアクションに単純明快なひとつの原因があるとすれば、
それは、
「メガネかけてるけど、萌えられた記憶がない」――というそれだけのことなのかもしれない。


……あれ?とすると、これってやっぱルッキズム?(うわー絵に描いたような堂々巡り)

*1:えびの味

*2:

*3:この辺で列挙するのに挫折。あとは頼んだ皆の衆。

*4:つーか振り切れてる?