「エリート」信者という、優越感ゲームのプレイヤー
ARTIFACT@ハテナ系 - 優越感ゲームのプレイヤーを考えてみるの話だ。
ネット上で話題になっている議論*1を興味持って読んでいるんだけど、その議論には参加したくない人というのはウォッチャーだ。
で、そのウォッチャーの中に議論に参加している人たちを嘲笑するような視点で、ネット上で言及する人というのをよく見かけるのだが、これがメタ化による優越感ゲームのプレイヤーなのだろうか。言及しないと気が済まない人たち。関西でいう「いっちょかみ」とでもいうか
ひどい人になると、かなりの意見を表明しているのに、自分は議論に参加していないという立場を崩さない人もいる。それ十分参加してるのに…。「○○には興味ないんだけど」といって、長々と意見書く人もこれかな。
それらに通低する態度とは、「権威としての教養」を心の底では崇拝しつつも、それを表に現すのは、自らの住まう世界とははるか離れた「異界のエリート」を通してのみとするような態度である。
それはつまり、【真なる「教養」を持ちえるのは=持つことが許されるのは、社会=世間的知によってその地位を認められた特定の人間だけである】とする態度だといえる。
ここに言う「特定の人間」=「エリート」には、政治家、医者、弁護士、学者、有名人、スポーツ・ヒーロー、メディア・タレントなどのものが挙げられる。
そして、これらの「エリート」達は、ほとんどの場合、崇拝者=信者と生活圏を一にしていない。「エリート」とその信者は、一次的に触れ合うことのない場所に離れて住んでいる。
――まさに、浮き世とあの世の情景である。
これはすなわち、崇拝者からすれば「エリート」によって直接的に崇拝者側の無知を指摘され、自己愛を傷つけられることのない「安全な距離」であるということができる。
それはまた、信者たちが「教養」という神性を体現するそれら「神々」から、ありがたい恩寵は受けても、祟りを受けることはないという、実に都合のいい距離だということもできる。
付け加えて言うならば、この信者の「まなざし」の先、その頂点に君臨するのが天皇であるということは、紛れもない真実であろう。
だとすれば、それら一連の「冷笑・罵倒・否定」には、彼らの奉ずるところの「教養」に対する一種の「不敬罪」としての意味合いが少なからず含まれているものと考えられる。
その理由は、異界に住まう「エリート」に対する礼賛とはまったく反対に、自らの身近に存在する教養を持つ者=文化エリート=草の根エリートを、根底からことごとく否定しようとする様からも伺える。
この態度は何もネット上だけに限ったものではない。よくシンポジウムなどに現れる、「質問時間に、趣旨とはまったく関係のない自分の意見だけを長々と言う老人」がその例である。
はたまた、「論理的な試考をする者を、すべて「アカ」の一言で切り捨てようとする中高年」がそれである。
あるいは、社会に出てきたばかりの人間に対して、その身につけた知識を完膚なきまでに引き剥がそうとするときに使われる、「おべんきょう」というコトバもまたその例であるといえる。
――「「社会」に出てきたら「おべんきょう」なんて何の役にも立たないんだ!!」、というアレである。
なぜ、「役に立たない」のか。
それは、知識・教養を「役に立たせ」ようとすることが、自らでは教養を持ち得ない(と思い込んでいる)「エリート」信者達の自己愛を傷つけ、そして、「教養」とは「真のエリート」のみが持ちえるものだとする彼らの信仰が崩れさることにもなるからである。
――そして、彼らはその「不敬」に対して憤るのだ。
そうした態度から、この「エリート」信者は、逆に「無教養主義者」だということも可能だろう。
――自らの無知によって、自らが無知であることで、下々の庶民・平民・臣民が愚かであればあるほど、「真なる教養」の価値を美しく保障することができる、と信じているというわけだ。
だからこそ、彼らはその思いもよらぬ身近に表れた教養の影に対して、まさに徹底した否定を浴びせかけるのである。
そう、理性も理屈も理論も存在しない、ただただ感情のみによる罵倒・冷笑・嘲笑の洪水。
その恐るべき量によって、論理・論述を押し流してしまおうとするのが、彼らのパターンである。
――いわゆる「炎上」という現象もまた、これに近しいものがあるといえるだろう。
さらにあるいは、これらの態度をして、歪んだ左翼的平等主義の発露だということも可能である。
――「アカが!」という否定を口にする者こそが、もっとも左翼的な心情を抱いているということである。
「みんな馬鹿でなければいけない」「みんな無教養でないと不公平」
「ちょっと人より(自分より)教養があるやつなんて許せない」
鈴木謙介の言う「学級委員会的平等主義」による「自己責任論」の暴走もまた、これらの「エリート」信者=無教養主義者=俗化左翼主義者の振る舞いであったことは言うまでもない。
そして、彼らは喜んでこの文句を口にするのだ――
「上見て暮らすな、下見て暮らせ」