「センス」なるもの〜差異化の差別構造〜

結論から言えば、あらゆるシーンでその個性の源泉であるといわれるような、自己責任論的な要素である「センス」とは、
単純に、「データの蓄積量」とその「編集技術」の総体を指しているものに過ぎない。


それ以上に何か先天的な神聖さであるとか、神秘の才能であるとか、超越神力であるとかそういうものは、この「センス」の如何に於いて全く関係がないものであると断言できる。


であるならば、「秋葉原における数種類の画一化された彼らの服飾は全く説明不能」だという指摘も、全く見当違いのものとなるのではないだろうか。


そう、限られたデータの総量の中から何とかそれを編集して出来上がったものが、たまたまそれらの「画一的」に見える結果を生んでいるだけであって、
その「結果」は、「彼らが画一的な服飾を好んでいる」という「答え」に結びつくものではない。


一方で、そのような「服飾の画一性」なるものには、また別のコードも潜んでいることは、誰しもが知っていることだ。
すなわち、ユニホーム=制服の存在がそれである。


同一集団を示すコードとしての制服の存在は、ファッションの要素に集団形成的なものがあることを示しており、それは制服に対する私服領域にも当然表れている。
――「○○系」のように。


しかし、それらファッション族「○○系」の人々は、はたして画一性を求めてそのようなスタイルに身を包んでいるのかといえば、そうではないだろう。
そこにあるのは、オリジナリティへの希求だ。


そして、このオリジナリティへの希求こそがファッションを支えているものなのだとすれば、
だとすれば、
なぜオタクだけが、どこか別の「○○系」へと回収されることが運命付けられるのか。


もちろん、自ら思考することに苦痛を感じるものがいることも否定はしない。
だが、
だとしても、オタクを辞めることが「脱オタ」ではないのだとすれば、これまでのいかなる「○○系」にも属さない、別のファッションのパターンがそこに希求されてもかまわないはずではないか。


そしてそれがもし、「差異の構造」を再生産するだけであるとしても、ファッションの本質が「差異」であるとするならば、
もうすでに大いなる差異を獲得しているオタクに「脱オタ」なる、「差異の構造」の再生産の呼びかけがなされること自体が異常なのだ。


なぜそこまでコソコソしなければならないのか。
無地と無地の組み合わせがいかほどまでに罪深いというのか。


やはり、これは語ることのできないサバルタンへの抑圧だという以外にないのではないか。


だとすれば、われわれが助けを求めるべきは国連人権委員会のようなものであり、またオタク解放同盟のような運動母体なのではないのか。