モテ族のアカウンタビリティ〜天満唯さんへのコメント3〜
「大乗」というのを「強制力のあるナニガシ」と捉えるのはちょっと待ってもらいたいんですが。
そも、今の「小乗」*1論者の主張を見るに、あまりに「選民」的なニュアンスが強すぎはしないかと思うわけです。
誤解の内容に言っておきますが、「選民」的というのは「貴族」的とかいうことではなくて、単純に「選ばれし者」的なスタンス=「資格ある者」的なスタンスを意味します。
このニュアンスを理解していただける点にかかっているのですが、
たとえ天満さんが「押し付ける」ことはしなくても、「自己責任」だと言い放つ時点で、そこには「選ばれない」という人が必然的に生まれるわけで、
そうすると、それは「自己責任」以前の状態で「捨て置かれる」という感覚を受けることにつながります。
というか、僕はそもそも天満さんが「押し付け」論者だとは思っておりません。
が、しかし、天満さんの言うところの「自己責任」論に、どこか「選民」的なものを感じ取り、
そこに対して、「選ばれない者」であり続けてきた僕の「非モテ」アンテナ*2がビンビン反応するわけです。
「押し付ける/押し付けない」という感覚自体が、選択的・選別的・選民的なニュアンスを含んでいるのだということを、どうかご理解ください。
そして、この問題を超えるためには、徹底して底の底にまで、泥の底の底にまで手をすくいいれるような配慮を含んだ説明が、必要になってくるというわけです。
つまり、まだまだモテサイドからの「脱非モテ」言説は、説明不足な点が多すぎるということです。
XとYが何を意味するのかも分からないのに、「解の公式」を教えられても、いったい誰がそれを意味のあるものとして活用することが可能でしょうか?
もし、それで解決できた者がいたとして、「脱非モテ」に成功したものがいたとして、それはどこまで「非モテ」に対する理解を留めた者であるでしょうか?
ただモテ理論を丸呑みして「脱非モテ」を果たした人間が、「非モテ」に対していう言葉で、予想されるのは
「考える暇があったら行動しろ!」
「行動できるものだけが行動すればいい」といったようなものです。
そこには、もはや「悩み」に対する回答はなく、ただそれを「なかったことにしろ!」という強制力だけです。
そんな不毛なサイクルはもう想像するだに苦痛であり、しかして確固としてすでに現実となっています。
「非モテ」は悩んでいるのです。
それに対して「悩むな!」というような姿勢は、はたしてどこまでの射程を持っているといえるのでしょうか?
その射程に対して僕は先に「小乗」という言葉を使ったのであり、
天満さんの意見に対してこうまでしつこく疑義を挟んでいるわけです。