「まだ」ではなく「もう」男じゃない、「非モテ」

26日のオフ会で、一か月分の話のネタを一気に仕入れたがために、それを自分の中で処理するのが大変なんだが、とりあえず一番大変なのはid:TZKさんのはずなので、頑張ってね!!(ちょーむせきん)


そんな枕はさておき、こと男性の非モテに限ってのことになるのだが、ブクマ経由でこのログを読んで、遅まきながら朧げながらはたと気づいた。
夏の葬列 - 長い; (「朝まで生テレビ」森永卓郎発言など)


確かに「「男性」性」の「喪失」であるとか「欠落」であるとかが、「非モテ」性を形成するその端緒なり根底にあるのかもしれない。
が、もはやそんなことは問題の核心ではなくなっている、ということだ。


もはや今は、「非モテ」とは「まだ男じゃない」というものではなく、「もう男じゃない」という境地に達した立ち位置となった「後」の世界なのだ。


「もう男じゃない」。
この姿勢には、それまでの自己への否定的な観点、あるいはマイナス方向への思考のベクトルはなく、むしろありのままの「現実」を見事に「肯定」するスタンスである。


これは政治的戦略としてもきわめてまっとうな結実点だと言える。


結局のところ、「非モテ」を称しその状況に苦悶している内は、所詮「モテ」的な構造を裏側から支えているに過ぎない。
対立軸とは常に相補的な関係にあるのである。
敵がいるからこそ味方が判別でき、外部があるからこそ内部が規定できるのだ。
――そして、もちろん悪がいてこそ善が存在できる。


だとすれば、「喪男」や「非モテ」と言った言葉に含まれていた「「男」に非ず」というニュアンスに拘泥する内は、意図するとせざるとにかかわらず、自らを苦しめらる、自らを罰する、当の「悪しき」原因を、自らが支えていたということになる。


非モテ」自身が、その「二項対立」の構図を二律背反と捉えるのをやめ、「二元論的世界観」であるという俯瞰したパースペクティブを獲得したその証が、先のログに現れた、「もう男じゃない」という意識である。


もちろん「非モテ」の全てがそういう視野を得たわけではないだろう。
が、少なくとも先のログを読む限り、この「非モテ」における「もう男じゃない」という意識が徐々に浸透してきていることは確かだ。


これは、ある種「反人間的」な行動である。
まさに、Anti-Humanなわけで、そして、静かなる抗戦行動――サイレントテロであるともいえるわけだ。