「仏教の肉食禁止」という都合のいい嘘〜ネット世代が葬る俗流仏教文化〜

mumurブログ:犬の頭部不法投棄事件の容疑者 「犬の肉を他の肉に混ぜて売っていた」
ここ(↑)は基本的には嫌韓ネットウヨのすくつなんだけど、なんだけど、時としてコメント欄には意外に冷静な人が多かったりする。
まあもしかすると、「焦っているだと?私は冷静だ…!」という類の冷静さ*1なのかもしれないけれどもそれはさておき。
このニュースのポイントが「その肉を口にしていた人が、犬肉を食っているという自覚があったのか否か。」(<<参考>>)というのはもちろんである。
が、もうひとつのポイントというのがここだ。

伝統的に仏教を信奉した日本では、肉を食べ始めたのは1868年の明治維新以後だった。しかし仏教の輪廻説を根拠に人間のすぐ次の段階である犬の肉は、どんな場合も口にしなかったし、甚だしくは江戸時代には犬を神さまと信奉して幕府が毎年多額の税金を投じて迷い犬を保護し、犬を虐待した飼い主を流刑に処する事も頻繁だった。

▽ソース:Yahoo!Koreaニュース(韓国語)(2005.12.18 16:10)
http://kr.news.yahoo.com/service/news/shellview.htm?linkid=4&newssetid=746&articleid=20051218161034122

まあ、元が韓国のニュースなんでさすがにとやかく言いにくいのだが、これが国内のニュースソースであったとしたら、それを見た日本仏教関係者はさぞかし喜んだことだろう。
労せずしてそのブランド価値が上がることに対しては、たとえそれが虚妄であろうとも一顧だにしないという厚顔さを「日本仏教」は持っている。
「日本には仏教に基づいた伝統的な肉食禁止の文化があって、文明開化の明治維新以降に初めて西洋の肉食文化がもたらされたのだ」などという文句を一度は耳にした事のある人も多いだろう。
が、はっきりいってこれは寝言ポエム以外の何物でもない。
門の脇にでも貼り付けてろ、と言いたい。
詳しいことは以下のリンク集(↓)に詳しいが、端的に言えば「肉食禁止令が出ていたということは、禁止しなければならない肉食の習慣が確固としてあった」という単純なことである。
確かに仏教教義に基づくの肉食禁止はあった。
しかし、それをあたかも「仏教が肉食を禁止していたこと」をもって「誇り高い文化を持つ証拠」であるかのように装い、その虚飾虚妄を根拠の無い文化ナショナリズムにまで変異させ、容易に探りえない歴史とか伝統とかいう霞をかけて、自らの有難味を増そうとしてきた「日本仏教」のやり口は小汚いとしか言いようが無い。
とはいえ、そんな霞もあっさり晴れてしまうのがこのインターネットというものだ。

犬を食っていた日本人
クサツパイオニアファーム**コラム**肉食考(ニクジキコウ)1
食文化
仏教の肉食禁止
肉食文化と仏教思想
GYROSCOPE --バックナンバー

さらにいえば、思想哲学ではなく、当の昔に文化仏教となり果てている今の「日本仏教」は、その支持されているレゾンデートルの半分以上を新興宗教の教義によっている。
口を開けば「○○見たいな金儲け集団が云々」「○○見たいなエセ宗教が云々」といったまるで中身の無い正当性の強調をする者も多いが、その当の「日本仏教」=「伝統教団」の教祖を語る書籍――言説が、まるっきり新興宗教の主張をなぞったものになっているのだ。
それは新興宗教伝統宗教から出ているからだという意見もあるにはあるだろう。
だがそのことは、「日本仏教」=「伝統教団」が、自らの力で現代性を獲得し得ないでいることに対するエクスキューズにはならない。
「オウム」という彼岸の論理に、現世的論理で以ってしか対応できなかった時点で、「日本仏教」は自らその首を絞め、完全に死に体になったのだ。
そしてさらに、そのレゾンデートルの残り半分が「伝統であるが故に伝統はすばらしいのだ」という愚にも付かない文化ナショナリズムできていることを見るに、金閣寺をはじめとする仏教寺院など、百度焼き払っても一カケラも惜しくは無い。
もはや、寺の中に仏教は無いのだ。