鬱=「環境としての社会」への信頼感の喪失

そんな、ご大層な記事をUPするだけの精神力とパワーがあるなら、何でその力を、鬱病を克服して社会復帰する為の力として使わないのかね?
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精神力は、物理的なエネルギーとかパワーではない。


つまり、文章または理性または論理性は、エネルギーとかパワーの発露ではない。


それらは、いわば言語による自己修復のプロセスなのであって、その再生途中の薄皮張った状態をもって「正常な状態」と判断し、強引に外へ引き出すことは、たちまちの内にその傷を破裂させ、物理的精神的ショック等によりさらに別の症状を引き起こすことになる。


その他の症例としては、「説得」が「合理的説明」ではなく「感情論でもって押し切られること」としか感じられない。


その根底には、「環境としての社会」への信頼感の喪失がある。


そして、この「信頼感の喪失」の根源には、幼少期からの体験の積み重ねが多分に影響しており、引いては肉体的・容姿的に恵まれなかった物ほどこの症状を負うことが多い。


他にも、さまざまの情報に触れる、晒される中で、序列が刻まされることで、自らの拠り所となる軸――自らが胸を張り足を踏ん張れる評価基盤をつかめなかった場合にも、この症状がその暗い口を開く。


つまり、鬱病とは主として個人の身体に内在する症例である以上に、社会的関係性の強弱によって引き起こされるものであるゆえに、そもそもひとりでに何とかなるような部類の病では、ない。


そして、「向かえ」と示される先の「社会」が、どこかしらなにかしらで「信頼への可能性を感じさせるもの」でなければ、「復帰」などという概念は、そも当てはまらない。


それは、「悪い方」か「もっと悪い方」のどちらかを選べと言うのに等しい。


どうしても「復帰」させたいのであれば、多少なりとも「いい」と感じられるカケラが必要だろう。