たとえば宗教というものを〜補い合う「聖」と「俗」〜

たとえば宗教というものを、
「何らかの聖性を担保として営まれる一連の行為」
または、
「何らかの聖性の所在を込めて営まれる行為」
であるとすれば、


あらゆるものに対して、「信仰」の存在の「暴露」を仕掛けるような、対象依存型の「批判」という陥穽には陥らずにすむのではないだろうか。


とは言っても、「聖性」の見極めなんてのは、よほどでなければ、主義主観入り混じったものになるのだろうけれども。


さらに言えば、その「行為に潜む聖性」というものは「聖性を持たない行為」と対であってこそ存在するもので、
「聖」と「俗」の美しい相補関係が、確固としてそこに存在することになる。


いうなれば、「醜いセカイが存在してこその聖なるセカイ」なのであって、それに増して重要なのは、その逆向きの回路としての、「聖なるセカイが存在するための醜いセカイ」というものである。


「聖なるもの、美しいもの」というのは目に付きやすく、また数も少ないが故に、「真理」として提示されやすい。


だが、そもそも「醜い実体」を持たないものに対して、さも最善の策であるかのようにして、そのような「聖性」を注ぎ込むことは、
そこに「聖性を持った行為」こそを「俗なる行為」としてみなすような――「聖なる異界の論理」をこそ「俗なる真理」とするような、歪んだ、転倒した境地を育むだけなのではないだろうか?


この「聖」と「俗」との見極めを、その場その場においてしかと行える人間を育てられてこその、専門教育――専門性――プロフェッショナル魂だとは思うのだが、
どうにも「わかりやすさ」という毒の方が口当たりがいいらしい。


それに、「かつて」*1と「現在」*2の違いを根っこから見据えることも、重要である。


「かつての例」に「含まれる解法」を、再構築しなおすことなしに「現在の問題」に「そのまま解法として当てはめようとする」こと。
これこそが、「聖性をこそ俗性であるとみなすような歪み」の根源だ。


たとえば例を挙げるなら、
『ひきこもりやNEETを叩きなおすために自衛隊へ入れろ!徴兵制を実施しろ!』という「健全な意見」があるが、
それがほぼ、「ベトナム戦争症候群」や「湾岸戦争症候群」と同じく、「自衛隊症候群」を生むだけの結果に陥るであろうことは、火を見るよりも明らかである。
また、同様の意見として『寺に入れろ!』というものもあるが、それこそ論外である。
現在の寺とは寺族*3世襲によって経営される家業である。そこに何の血縁もない、たとえ血縁があったとして、そこで寺を「得る」望みのないものが息づく余地などないのだ。


それが「身体性」の獲得をもくろんだものだとして、
本来、俗なるものとしてある「身体性」を、そのような異界の体験をもって聖なるものとして「身体性」を獲得した人間が、
はたしていかにして「自然」で「常識的」で「健全」で「普通」なセカイに還りうるというのか。


もしかして、それは見えざる恐怖よりも目に見える恐怖の方を、という暗い渇望なのか。


実態のわからない、得体の知れないサイレントテロよりも、
タクシードライバー」や「ランボー」のような、暴力的、破壊的マイクロテロが噴出する方が、
警察権力という「わかりやすい」対処療法を当てはめられる、と、はからずも遠巻きに望んでいるのか。


たとえば宗教というものを、「必要である」というワケは、
決して、国を愛する心や感謝の心なんかを育てるためなんかじゃない。


そんなことはどうでもいい。


いや、むしろそんな上澄みの上っ面のお上好みのお為ごかしを塗りたくられるなど有害無益以外の何物でもない。


人間意識の基本原理として存在する「聖」と「俗」という相補的な関係性を、自分の力で判断できるようにするためにこそ必要なのだ。
「「聖」と「俗」のありよう」をないがしろにするような愚かな物言いを排するためにこそ、必要なのだ。


「俗」なき「聖」は毒である。「聖」なき「俗」は毒である。


「救い」をうたうは毒である。


「苦」を解いてこそ法である。

*1:近世まで

*2:近代以降

*3:じぞく