ひきこもりやニートに必要なのは「精神論」ではなく「身体論」……なのだが

まず最初に確認しておかなければならない点は、「精神論」とは往々にして自らがある程度確かな「身体感」を獲得した地点から生まれるものだということだ。


自分が自分の体を確かに司っている、コントロールしているという「実感」がベースとなり、それが無自覚のレベルにまで至ったところで、人間はかくも容易に「言語を絶する境地」に転がり落ちる。


「精神論」とは、ある種の「神秘主義」だともいえる。


本来、精神について語る言葉とは、人間の精神の恐るべき複層性また限りない多様性を念頭においた上で、最小公約数的な落とし所を探ろうとするという、常に限界を抱えたものである。
少なくとも、そのような配慮を備えたものでなければならない。
でなければ、またたくまに「単純な敵に対立する単純なわれわれ」という貧弱な存在として、人間を規定しなければならなくなる。


しかし、「精神論」は、その人間の精神をあたかも素数であるかのように扱ってしまう。
精神がそこに「ある」のならば、その解となる約数は「これしかない」というように。


その典型が、こちらでも批判されているような「自衛隊待望論」である。


その論の粗雑さは改めて言及するまでもないのでさておくとして、
問題は、そのような「精神論」、言語野をまるごと剥落させたかのような物言いがなぜ生まれるのか、
そして、その過程について語られることがいかに少ないかということ、
さらに、その「「言語を絶する境地」に転がり落ちた」ということをもってなぜそれが「真実」であると居直られるのか、という点にある。
これらは、いずれも循環しからみ合った要因であるので、一々を切り取って解を説くことも難しい。


はっきり言って、これに対抗する言説を構築しようというのはかなり骨が折れる。
なぜなら相手がはなから言語を放棄しているからである。
しかもそれが、それこそが「真理」であるとして。


とはいえ、これもどこかでとっくに解が出ている話であるかもしれない。
なぜなら、これは宗教的かつ哲学的で、古典的な命題だからだ。
とはいえ、過去はそれを知り得ないものに対しては存在しない。


まず大きな問題は、言語を放棄したことを誇る人々との意思の疎通――コミュニケーションを図るためには、言語を求める人間の側が、一様に譲歩しなければならないということである。
なにせ、相手となるのは「真理」なのである。
そこではもはや、コミュニケーションは双方向的、相互負担的なものではなく、独善の壁に対する一方的なアプローチであり、しかも、「聖なるもの」への反逆という意味合いをも持たされるという極めて不平等なものとしてのみ存在する。


そして、二つ目の問題は、その「山」を登りきったら君にも「真理」が見えるハズ、と言われたその山の頂にたどり着いたところにもある。
もし、たどりついた先で目にしたものが、やっぱり空疎な言語活動の放棄でしかなかったとしたら、そこで返される言葉は決まっている。「この山は、はるかな高みへと続くその入り口に過ぎない」と。
また、最悪そこで「真理」を得てしまったが最後、これまでの必死の反逆的アプローチは、一転してポールシフトを引き起こし、そこに一人の神秘家が誕生してしまうことになる。
「私は間違っていました!!」と涙を流して感動しようものなら、もはや目も当てられない。


つまり、このはじめから反逆の烙印を押された一方的な受動的議論は、その「終わり」をどうでも、どうとでも、いくらでも書き換えられてしまうのである。
この絶えざる「真理」の「無限後退」は、まさに「言語を絶する」という性質に終始する。
「語れない」ものが、「言語」として認識できないものが「真理」であるとされる限り、語ることはすなわち不可知の道でしかなくなり、故に、「体験」という「魔境」だけが「真理」への道として開かれることになる。


いまだにおぞましいのは、あれだけ体育会というものに虐げられた私という人間が、大学のクラブの後半では、そのような「精神論をこそ正しいのだと信じる境地に転がり落ちていた」という事実だ。
思い出すだに吐き気がするその記憶は、しかして、ぬぐいがたい身体の記憶としてここにある。


もともとが貧弱な体しか持たないこの私が、かのクラブにおけるその術を会得するに至るまでは、もちろん思考でもって、工夫でもって、なんとかそれをこなそうとしていた。
にもかかわらず、最後に落ちた境地は精神論だ。


もちろん、その「身体感」に対抗するべき人間としての精神――思考力、知識量が未熟だったことも確かだ。
だが、どうだろう。
その後の精神への再傾倒がこの身にもたらした破綻は。
対して、そもそも幼稚園、小学校のころから、肉体的に恵まれた親に恵まれた体を恵まれたものであれば、20才に至るまでに十分、十二分にこの「身体感」を確実な「真理」として結実させているだろう。
そして、「言語を剥落させた」ことをまったく意識することなく、「健全」に振る舞い、それをこそ「自然」であると認識し、「言語」にこだわりを見せることを「おべんきょう」と嘲り、それに関わるものを物理的に否定する。


そのことを思い、そこで思考を止めるのならば、まさに「精神論」という「真理」への再転向の道が開けてくる。
だが、私にはもはやその礎となるべき「身体」が、「身体感」がない。
いや、「身体」はもはや私にとって欺瞞でしかない。たとえ、その瞬感があろうとも、それが継続することなど考えられない。
それを感じることが私にとって「裏切り」でしかない限り、裏切りは次の裏切りを生む土壌でしかない。


そして、もう一つの体験からは、どうしても別の解の存在を感じずにはいられない。


先のクラブの例とは違い、今度はそれを体験していること自体が平均から大きく外れたものとなるのだが、それでもそこで見えたものは、ほとんど他と変わらない「身体感」と「精神論」の世界であった。


とある仏教教団での出家修行である。


その期間の長短はともかくとして、その中ではいく度かは無時間的な感覚というのも得られたし、そしてまた、そのときはそれこそが「真理」であるとも感じていた。
しかし、それはまた、別の疑問の元となるものでもあった。


そこには、内部の人間と外部の人間がいた。
外部の人間とは私のような、在家、つまり一般家庭の出身者のこと。
そして、内部の人間とは、家業としての寺院経営を営む寺族の子弟のことである。


別の疑問とは、この両者の間に感じた修行に対する「温度差」である。


もはや、すでに何の感慨もないが、現在の仏教=寺における修行とは、単なる通過儀礼としての位置すら占めえていないのである。
それは、ただ制度としてそこにある、「面倒くさい」「つまらない」「古臭い」「時代遅れ」なシロモノでしかない。
事実、当時あったやや原理主義的、教祖復古主義な動きが、結局、周囲の反感しか生まず、あっさり潰えた点は、その「正しい道」が、現在の「社会で仕事を持って生きる」という生活にまったくそぐわないものだったということに尽きる。
もはや、「聖なる時間」など「社会の現実」の前には塵ほどの価値も持たないのである。
そう、物理的に時間は存在しないのである。 


それはまた、仏教=寺があくまで集団的であるからでもある。*1
修行とはすなわち、集団生活において経験されるべきものであるとされているからこそ、寺とは別の集団に属することこそ生活を支えるものとなっている「現実」の前に、聖性は実にあっさりと敗北するのである。
パンは聖よりも強し、だ。


しかし、また仏教=寺には、もう一つの「現実」。寺が寺であるという現実が、ある。
いかに内情が倦怠化し、世俗化し、政治的で、スキャンダラスで、非禁欲的で、むしろ反禁欲的で、非教学的であろうとも、
そう、寺の内部世界とは常に「外向けに演出された日常」であらねばならない。
「非日常を演じる日常」――それはつまり、寺とは「社会の外部的に装われた社会内部の延長」でしかないということである。
それこそが、寺における「身体感」であった。


内部の人間はこのことを実によく知っている。
いうまでもなく、それこそが彼らの生きてきた空間だからなのだが、その感覚――そのぬぐいがたい「身体感」は、修行中にこそはっきりと浮かび上がっていた。


一見、瑣末な無作法には神経を尖らせ、行の本体に対しては苛立ちと不快感を口に出して確認し合う。
それは、いかにして聖性を忌避しようとするかという、もはや無自覚、無意識レベルでの「身体感」の発露であったのかといまさら気付く。


だが、それを日常として生きる内部の人間にとっては、聖性など「装い」として身にまとう以上の価値などないのだ。
いかに就寝後の監視の目をくぐってラブホテルに通い、起床の時間までにうまく戻ってきたかというのが武勇伝として語られるのが寺の日常なのだ。


だが、妙な意味での「非僧非俗」な私の身からすれば、そのような姿勢こそ疑問に思えてならない。
なぜ、こうも簡単に「精神感」を捨て去れるのだろうか、と。


そう、「精神論」の対であるところの「身体感」に対応する、「身体論」の対になるべき「精神感」が、彼らにはまるで感じられなかった。


「精神感」。――「身体感」が、言語を絶した「精神論」をもたらすのならば、なぜ言語を介した「身体論」の基となるべき「精神感」が、人間の精神への気付きがこうまで、無化されているのだろうか。
もちろん、これは寺に限ったことではない、寺もまた社会の延長に過ぎないとしたら、これは間違いなく社会の問題である。


この「精神論」に対して、一つ考えられる解は、そのような聖性の放棄を「言語の放棄」によって逆説的に補完しているのではないかということである。
現実の前に体験として存在し得ない聖性というものを、その「存在し得ない」というその否定的契機を丸ごと無化することによって、あたかもそこに聖性がまだあるかのように装うことが、「精神論」における「言語の放棄」なのではないだろうか。
これには、「意図的に語らない」ことも、「意図して語れない」ことも、「それが無条件の前提=自然な状態だとする」ことも含まれる。


それが、つまり、非言語への居直りが、「聖性の回復儀式」――正確には「擬似的聖性の回復儀式」としてのものなのだとしたら……
それが擬似的なものであると、なにをもって伝えられるのか。


人間の精神への気付きが生む、言語を介した「身体論」。
仮にそれで伝わるとして、さて、その「身体論」とは……?


誰かヒントください。

*1:逆に言えば、それが個人的であるならば、聖なる修行をもって生活することも可能になるかもしれない。