受動世代のロンコーゲームについてのメモ

シロクマの屑籠(汎適所属) - 受動世代のロンコーゲーム(論考ゲーム)
なんか今さらいじられると恥ずかしいポイントだったりする。>タイトル
正直、エクリチュール(書き文字)としてのバランスは考えたが、パロール(発話)としてのものは、ましてや自己紹介で「こころ〜〜〜(恥ずかしいので略)」です。とかいう事態はまったく想定していなかった。あと、いろいろ意味やアイデアを含ませてたり、こそっとジブリメソッドを混ぜたりもしているが誰にも言ってない。


さて、「受動世代」について。
世代という大枠で切るのは少々不用意かと。もちろん、タイトルネタからくるものだけど。
ある種の気質が、大勢を占めるようになったというのであれば「世代」化も可能であるだろうけど、そもそもマイノリティを自認する気質に対して、「世代」視するのはどうだろうとかも言えるか。
「環境」に対する認識の形成について、気になってはいる。

周囲の環境への二つの視点の存在。
「環境」とは私を操作しようとするもの、支配しようとするものである。
「環境」とは私が操作するもの、支配するものである。
(自分用書きかけメモより)

こうした二つに異なる視点がいかなる経緯によって形成されたのかという点をないがしろにして、それこそ心理還元主義的に論を進めると、自分とは異なる「理解できないもの」を認めようとしない老害首相@小泉に近しいものとなってしまう。
「理解できないものは、理解しなくていいものではない」。
それが社会問題であるなら、問題だというのなら、解法が必要だというのなら、なおさら。
そしてもし、それを本当に心理還元主義的に、心理主義的に、個人の心の問題であると、自己責任論的に言い放つのであれば、そういう人がいるのであれば、その人間にとって社会問題は存在しない。
全ての問題が個人に起因するという視点からは、社会的影響が生む、社会の成員として考えるべき問題などそもそも存在しないことになる。
さらにいうならば、自己責任論の追究は社会そのものが存在していないということにもつながる。
全ての事象は自己=個人の限定された行動に過ぎないのであって、当事者以外の人間にはまったく興味がない、利害の及ばない問題に対しては無関心である、ということになるはずである。
逆に言えば、社会的見地から発信される自己責任論というものは、論理矛盾もはなはだしい。


「甘え」もまた、環境への操作行為、支配行為の一種である。
それは、もっとも初歩的なものなのか?それとも原初的なものなのか?
原初的体験としての「甘え」=環境に対する操作感、を獲得するか否か、できたか否か、が問題なのか。→こう考えると、アダルトチルドレン的な理論に近しくなる。→「育てなおし」という「岩月メソッド」はこれに当たる。
あるいは、環境への操作感の不能感の蓄積が、世界観を構築するということもあるだろう。
それが、数を重ねるのならば、それだけが体感されるのならば、その世界観はより強固なものになるだろう。
とするると、これは人間意識における環境認識の問題として、心理学的なアプローチがかのうならしめられるポイントなのではないのか。(←変な日本語だ、たぶん間違ってる)
また、それを「経験則」という視点で切るならば、環境支配型=能動型と環境従属型=受動型のどちらもが等しく「経験則」だということになる。
どちらもが、真理足りえるということである。

<関連>
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刺身☆ブーメランのはてなダイアリー - 白馬の王女様待望論者ってウケミンのことだよな

童貞でもオタクでもないけど何かの理由で強い劣等感を抱いている人は受身の恋愛をするんではないか。

  ↑これってのが「甘え」とか「同情引くのがうまいヤツ」とか「母性本能をくすぐる」とかいうのなのなのではないのなの。あと、「ヒモ」とか。