「戦略」的な言葉の価値と「戦術」的な言葉の価値

野党のロジックが正しいかどうかはさておき、不景気を改革の原動力として歓迎したのは小泉総理その人であり、景気対策を罪悪視して議員が列挙するような改革に淫していたからこそ議員が指弾するような不景気が長期間放置されたわけです。まったく関係ないどころかおおありといわざるを得ません。


さらには「まるでニートやフリーターをこの国のお荷物のような言い方をする人がいますがね、/杉村太蔵はそういうことを言う人間を絶対に許さない」とのことですが、構造改革とはまさにそういった「お荷物のような言い方をする人」の思想であるわけです。上のエントリで紹介した「待ち組」という言葉にしても、お荷物を人間改造して使い物になるようにしようという発想の表れです。


bewaad institute@kasumigaseki(2006-02-05):杉村太蔵議員を見直しました

「見直しました」という言葉に、肯定的な「読み」を生成する視覚的効果が強すぎると感じたためブックマークしなかったのだが、この記事の視点は確かにいい。


しかし、杉村太蔵に対して「見直す」という言葉を使うのは、続く指摘にもあるように、少々早いのではないのか。

以上のように杉村議員の現在の問題意識をつきつめていけば、それは小泉総理の否定に行き当たらざるを得ません。初心を枉げず誠実に対応しようとするならそれ以外の道はないとwebmasterは思いますが、何とか頑張っていただきたいと心から応援したいと思います。


そうした点に行き着いてこそ、はじめて「見直した」という肯定的言語表現=評価をするものだと思うのだが、
あるいはこれは、対象をほめることによって――対象に肯定的言語を投げかけることによって、影響を果たそうとする戦略的な言説なのであろうか。
ならば、こうして対象をけなそうとする――対象に否定的言語を投げかけようとする戦術的な言説は、大事の前の小事であるとして、押しつぶされるものなのか。


だが、大局を見ることだけが可で、事象を突き詰めることが否だとする思考は、
それすなわち、
「改革なくして成長なし」という、恐るべきスローガンそのものではないか。


つまり、戦略と戦術は、「両論」として、玉虫色の誤魔化しを織り成すために使われるのではなく、「両輪」として、しかとかみ合わせてこそ、意味も意義もあるのだ。