「メタ物欲」、高級外車に出会うの巻

これこそがまさに「我ながらオタクじゃないなあ」と思う点なのだが、私はかつてシャア・アズナブルと呼ばれていた男だ非常に物欲の薄い男だ。


親から物を買い与えられるという体験の欠如(当社比)がその原因なのか、それともその過程で「あきらめ」という心理状態をこそ正常と認知したからなのか、はたまた先天性物欲欠如……なわけはないが、
ないならないであるもので満足するという心理傾向が非常強い私は、
たとえ、ある日突然「うはーーーウルトラザウルス超ホスィーーー!!!」となったとしても、たとえ、その衝動の最中に売れ残りのゾイドボックスを近所で発見したとしても、ネット上に陳列されるそれらの物欲展示≒顕示を眺めやることでもって、その勢いを消化してしまうということがよくある。


すなわち、私にとって物欲とは「欲しいと思う衝動」そのものなのであり、現実にモノがこの手の中にあるかないかはまったく関係していないのである。
これを別の似たものにたとえるなら、AVを借りるときに一番楽しいのは、いざそれを借りようとして洪水のような陳列空間に足を踏み入れた、まさにその瞬間で、いざそこから何をか選ぼうとした瞬間から、熱が放射冷却していくというようなものである。


それが「メタ物欲」とでも言うべきシステムである。


ニ、三年前にすばらしくハマっていた食玩というのも、元を正せばこのメタ物欲システムの発動の結果に他ならない。
というか、それがはじめての自覚的なメタ物欲システムの発動だったような気もする。
そのときの私は、あえて、そのメタレベルの物欲を恣意的に反転させ、新たなる宇宙を開こうとしていたのであった。


そして一時は、なんだかんだで、「ネタの果てのベタ」という、どこかの市民の方が好んで使うフレーズ通りの見事なまでの、ベタハマりの境地にまで至っていた。
……のであるが、それも環境の変化と同時に、一瞬にしてはるかなる因果地平へと再びメタ退行していったのだった。


しかし、このメタ物欲は、生きていく上でどこか脆弱である。
危うげであるという状態を否定はできない。
たとえ、その存在を「絶対肯定」したとしても、二元論的な「現実」を前にすれば、それは畢竟、否定の契機を含んだものとなる。


かつての食玩を媒介にした反転の根幹にあったのも、その「現実」との格闘へのささやかな挑戦であった。
「欲しいものぐらいなくては、もしかすると自分は生きられないのではないか?」という、およそ常人には思いもよらないことはなはだしい、ネジが抜け落ちたかのような、いやもしかするとそのネジこそが自分の新しい体なのかと錯覚するようなそれは、はたして少年の日の心の中の青春の幻影であったのか。


そして、諸般の事情により困極まっている今、メタ退行しすぎた物欲を今再び「現実」へと召喚せんと、そして現実感を何とか取り戻さんという思想的なもくろみとともに、私は先日とある会場へと向かった。


それが、「輸入車ショウ」である。


ものすごいインフレを起こしているような気もするが、気にしないように。