外的とか内的とかはいい、文章を晒すんだ

ブクマコメントに珍しく反論が返ってきてしまったのだが、あいにく空中戦をやる体力がないので竹ヤリで応答しておく。


関連しそうなのは、ここのこのこのエントリ→takoponsの意味 - 普通・常識・当たり前


これこそがオリジナリティの姿ですよ。


なにかってと、どんな当たり前のことを書いていても「そこに文章が存在する」ということそれ自体がオリジナルなわけで、<「オジリナティなるもの」が何パーセント以上含まれているからあるモノがオリジナルであると判定される>とかいうものではない。


読んだ人間がどんなにつまらなく感じても、そこにある文章はまぎれもなくオリジナルなもので、別の人間が読みさえすれば、「他と比較して目新しいと多数の人々が感じる記事」へと転化する可能性は十二分にあるのだ。


その「他と比較して目新しいと多数の人々が感じる記事」というのも、よくよく見れば所詮、これまであった話の総まとめであったりすることはよくある話で、これをすなわちWeb2.0用語で言うと「マッシュアップ」というものになる。


結局のところ、文章を晒せというよりも、「存在している」というそのこと自体が他に比較し得ない「オリジナル」な事象なワケなので、恣意的な演出は観客にとっては不明瞭なノイズに受け取られてしまう可能性が非常に高い。


まあ、一言で言うと、オタクがどんな文章を書こうが、その文章はオタクが書いた文章に見えるのだということかもしれない。


「にょ」とか「りゅん」とかはイランのです。





PS
過去においては僕も「内的なるもの」こそが、オリジナリティ=アイデンティティであると思っていたわけですが、ここ数ヶ月で完全に転向しました。
それは、空中戦から降りた理由であるのかもしれません。
わかりにくい文章で申し訳ないので最後に何とかこなれたフレーズでまとめるとすると、
「内的なオリジナリティは人が存在する時点ですでに確保されているので、もし「オリジナルなるもの」について思考を割くのであれば、外的なオリジナリティについてこそ意識を向けるべきなのではないか。」
ということになります。


あるいは、
「ベタは十分に担保されているので、メタとネタを自分自身にも適用してみましょう。」
とか。