紛争地帯と化すオフ会

(あらためてあらかじめあしからずお断りしておきますが、ワタクシは今回のラジオクリルタイ公開収録には参加しておりません。)


オフ会が起こるたびに何か揉め事が起こっているような気がしたので、ふとその要因について考えてみた。


が、特にほかのオフ会などの聞きかじりを検討してみても、毎回同じように揉めているという事でもない。


そしてよくみてみると、その揉め事の大体の原因は、参加者と非参加者の間の意識ギャップが生み出す温度差(たのしかったVSうらやましい)というものではなく、むしろ、参加者同士の間での場外乱闘といった方がふさわしい。


そうすると、これは「オフ会というネットの延長線上のイベントに固有の構造的要因がどうたらこうたら」という感じのJ社会学的な分析が必要な場面というよりも、単純に、理由はさまざまあるのだろうが、とかく揉め事を起こしたがる(起こしてしまう)タイプの人間が、該当するオフ会に参加していたからこそ揉め事が発生したのだ、という極めて単純な結論に落ち着くことになる。


必要なのは、現代思想というよりも現代医療なのか。


あるいは、すこしだけJ社会学に傾いてみると、人間性のセンシティブな問題をテーマに掲げるオフ会ということで、それぞれ「固有の傾向」を持った人間が一堂に集まったという時点で、避けうるべくもなく発生するコミュニケーションストレスが、該当する人間の内面で引きずられ、それが対人的な場面においては抑圧され、事が終わったあとになって、ネット上でフラッシュバックを引き起こしている、ということになるのだろうか。


とかなんとか考えたが、これではJ社会学というよりも素人精神分析になってしまったので、余計にタチが悪いことは謝罪しておかなければならないだろう。


しかし、いずれにせよ、こういった講演会な場、さらには酒の場での議論というのは、往々にして、というかいくらなんでもアカデミックな質を、たとえ擬似アカデミックなものであってもそういった質を追求するということは、そもそもがメッチャー=ムチャな話なのではないだろうか。


フラッシュバック側の意図を考慮するならば、だからこそ、その場においては身を引き、事がひと段落した後で、各論の追究をしようとしているのかもしれない。


しかし、その態度は事後の場において議論が許されることを無条件の前提にしてはいないか。


言い換えれば、議論が延長されることを無自覚に要求するという形で、場に甘えているのではないか。


端的に言って、それは他の参加者に対する甘えではないのか。


だがもちろん、このおもしろ時空であるところのはてなダイアリーでは、あるいはブログという場においては、そのような議論の存在要求は十二分に保証されている。


だとすれば、それが揉め事として認識される原因は、テキスト上においてコミュニケーションストレスを発生させる何がしかの傾向にこそあることになるわけで、


三者としての立場から、現時点でふさわしい提案をするならば、いったん間をおいて自他の考えを整理する時間をとってはどうかな、というところである。