日本的なるものとしての「嫌オウム流」

finalventの日記より重要なポイントなので引用

finalvent
『marcel_proustさん、ども。とりあえず、先日ちと書いたのと、この先をどう言うかはとても難しいですね。ちょっとだけいうと、オウムの残党的組織を言論・思想によって解体できない市民社会側の思想が弱すぎるのだろうと思うのですよ。
いわゆる仏教とかフェミニズムとかの言説が思想として死んでいるということでもあるし、その死の意味それ自体が彼ら*1と我々の軋轢であって、佐々木さんがいうような前提たる異者とのコミュニケーション・ギャップではないんですよ。
異者と我々の問題が佐々木さんはよく考え詰められていませんというか、彼のポジションが安全すぎて痛みがない。』 (2006/05/23 13:49)


民族問題ですら、もはや単純ではありえないのに、
単純な民族問題であるかのように「嫌オウム流」を煽るしか能のない日本仏教・マスコミ・その他は死ねばいいのに。


「あんな「エセ宗教」が」なんて言葉は非常によく耳にしましたよ。ええ、実際にこの耳で。
「僧侶の本分は寺(=教団)を守ることだ」と堂々と言い切る人間のいうことか!と。


仏教伝道師面してる五木寛之にしても、中身を読んだら肝心のところは「だれかそろそろ現代理論として解釈しなおす人物が出てきてくれないだろうか」みたいな他人任せで、結局自分は「いやしの仏教」という上澄みの気分だけを撒き散らして人を煙に巻いてゴマかしてそれで飯食ってるだけなんだから始末に終えない。


仏教解説者面してるひろさちやにしても、書く文章が「読むのにやさしい」だけで中身は千年一日のおなじことのくりかえし。それは自分流の念仏のつもりなのか。


イベント寺を新しい仏教だと称揚する上田紀行にしても、その研究活動方針は仏教が抱える問題の肝心要の部分に触れているとは言い難い。そんなごく一部の例外を、さも時代の潮流のようにフレームアップしたところでそれがどこまでの射程を持つのか。オウムという恐怖を煽るマスコミと同じ手法をとった鏡像に過ぎないのではないのか。


ガチンコ宗教史の末木文美士もまた、最近は何か研究資金にでも困ったのか、毒にも薬にもならないだけに始末の悪い、「日本仏教」というあいまいな現状維持のイメージを強化するだけの文章を再生産することにばかり筆を費やしている感が強い。もっと『近代日本と仏教』の第一章のような鋭い指摘をこそ投げかけるべきではないのか。それが仮にも東京大学教授としての責任ではないのか。


霊性」とか「癒し」とかいって仏教をもてはやそう甘やかそうなどとする手合いなど、なにをかいわんやである。大体そういう連中に限って、仏教と「日本仏教」との違いも分かっていないのだ。そして、そのどちらもが死んだパラダイムであることに気付いてもいないのだ。






泣ける。自分がこんなクダラナイ文章を書いていることが泣ける。
こんなシロモノに引っかかってしまうように生まれてしまったことに泣ける。

*1:umeten注:オウム