自意識のための批評は不毛である

マンガのためのマンガ批評は不毛であるでもいいし、アニメのためのアニメ批評でもいいし、あるいは、オタクのためのオタク批評でもいい。




いっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっぽい留保は付くんだけど、そう言ってもいいと思う。




そのいっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっぽいの留保の中で、それに自覚的になった上で面白いものが出てくるというのであればいいのだけれど、二十歳やそこらにとってはちょっとしたトリップドラッグとなる場合がほとんどだ。*1




今は、少しずつよくなっているらしいが、かつて見たマンガ学会のひどさは、大学院生の恐るべきレベルの低さに起因していた。
学術的レベルというよりも、論術的レベルという地点でひどかった。*2
もちろん、それはその後になってからわかったことでもあるけど、少なくともこの「わかるわからない」は決定的なポイントだ。
論述において自己を引き剥がし対置するということ。
これは、「できるできない」というよりも「わかるわからない」の領域の話である。
「技術」か「能力」かという、本質論、資質論ではない。*3
「気づき」の問題、「意識」の問題である。




となれば、これは特にマンガ・アニメ・オタク評論に限ったことではない。




しかし、




あらゆる形、方向への可能性をはらむ最後の時空間である大学を抜けると、そこはただひとつの「真理」としての「成長」へと不可逆的に「流れる」ことを余儀なくされるベルトコンベアーだ。




そこでは、年かさのライン工が自分のデッドコピーを作り上げようと嬉々として待ち構えている。
自分がかつてどのような過ちを犯したのか、今現在犯しているのかについて、まったく「気づかず」、まったく「意識せず」、「わかろうともせず」、そして当然「できるはずもなく」、ただただサディスティックな暗い喜びに浸っている。





消費という破壊行為を継続させ、消費という戦争遂行能力だけを高めなければ生きていけないのだという「真理」を「コピー」に叩き込み、ロボットのような兵隊に、そうまさに無思考無批判無感動な兵隊に仕立て上げようと、退役間近のキチガイ軍曹が、口角飛ばしてトリップしている。


軍人たる自意識のために「コピー」を批評しながら。




自らが存在するダシに「コピー」を使いながら。




軍人恩給を「コピー」からむしりながら。




でも、こんなことも30後半になれば忘れてしまう。それほどまでに、この兵站生産ラインは巧妙かつ卑怯かつ陰湿な仕組みでできている。




30後半にもなれば、もはや「立派な兵隊」として今度は自分が無思考で無批判で無感動な「コピー」を作る側に回れたのだ。




少なくとも、今までは。




今までは。








――今は?

*1:一握りの「天才」は除く

*2:マジやばかった

*3:だが、そういう側面ももちろんある