バラバを救えという非モテ

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「モテなる状況――恋人がいるという状況における心理状態」を、唯一普遍のものとして固定的に捉えていることがそもそもの原因なのかもしれないと思い至った。


あるいは、恋愛を成立させる核である情動的想像力が生み出す「同類としての連帯感」というものが、個々の差異を上回って醸成されるがために、その陰画として外部からの同一視、普遍視を招いているのかもしれない。


そしてまた、その同一視、普遍視がまた鏡像として「自ら=われわれ」を照らし出してしまい、「『われわれ』という同質の集団を形成するべきであるという規範」が、こころに刻まれてしまうがために、個々の状況の差異を際立たせる者に対する十字架刑が引きも切らずに行われるという、むなしい繰り返しが起きているのだとも思える。


私が知る限りでもっとも極端な例は、普通に恋愛経験を持ちながらも鬱状態に陥り、集団自殺の計画を作業分担までして実行直前まで進めながら、何の拍子にか新しい恋人を獲得し、わずか数ヶ月で婚約結婚したという例を見かけたことがある。――もちろんその書かれたものが真実であるとするならば、であるが。


ただ問題は、鬱という精神状態が非モテに典型的に見られるものであったとしても、人間精神にとって鬱というのは誰にでも起こりえる状態である、ということである。とすれば、鬱という一点を取り上げて全人格的に共感するということはやはり誤った行為なのであろう。「われわれ」という概念の構築をよしとする立場に立ったとしても、やはりそれは誤りであろう。


そして、ここでふと振り返ってモテなる人々の側に問題を見出すならば、個々に異なるはずの幸福の状況が、あたかも全く同質のものであるかのように表象されるのはなぜなのか、ということである。「幸福は一様であるが、不幸は様々である」というテーゼが、このポストモダンと呼ばれる時代においても未だ覆されることが無いのはなぜなのか。


「幸福な人間こそがもっとも残酷な人間である」というテーゼは真理であるが、設問に対する回答としては受け入れない。