苦しみを語ることが排他的なら、喜びを語ることもまた排他的である

そうでなければ、それこそが無自覚な排他的選民思想でしかない。

「この私の苦しみ」のみを握り締めることからくる漠とした排他的な選民意識を、何度か過去の記事で書いてきたように僕ははてなコミュニティに感じてきたのだが、川原泉を経由することによって、やや輪郭を与えられたように思う。
green - 川原泉とホモフォビア問題(4)-審判者としての恋人


念のため置き換えておこうか。

「この私の喜び」のみを握り締めることからくる漠とした排他的な選民意識を、何度か過去の記事で書いてきたように僕はmixiコミュニティに感じてきたのだが、はあちゅうを経由することによって、やや輪郭を与えられたように思う。


また、川原泉については、すでに指摘されているようにその根底に「恋愛」への「無関心」があることは確かだろう。
あるいは「無関心」というよりは、「理解できない」タイプの人間なのだといったほうが確かかもしれない。
「教授」とも呼ばれるその性格からも、何とはなしにそのような気がする。
そして、問題となっているゲイフォビアについても、「恋愛」に対する「無関心」が作用しているのではないか。
すなわち、各種メディア的文脈において男女のヘテロセクシャルな関係が美しく称えられる「恋愛」に対して「無関心」――「理解できない」人間から見て、ゲイ(あるいはレズ)というは、(メディア的なヘテロを軸とする)「恋愛」の枠組みから明らかに「逸脱」する存在であるにもかかわらず、そこに「恋愛」的な関係性というものが立ち現れているということが、まさしく「理解できない」のではないだろうか。


もっといえば、川原泉は自分の描いたマンガが「読まれている」ということについても、あまり理解できていない――意識していないのではないかとまで思えるのだが。