非モテの訴求力のなさは、文学と評論の関係に似ている

Welcome To Madchester:だから非モテはつまらない
http://d.hatena.ne.jp/republic1963/20061104#p2

この「だから」部分で語られるそれがどこまでも分析ではなく、心情としてあるというところがまさに、文学が評論に比して比べようもない訴求力を持っていることと通低している。

ジェンダーとか言う言葉は私にとってはメダパニと同じ効果を発揮します。

テクニカルタームというのはその一語でバックグラウンドまで含めた意味を持ちうるところに、意義と意味があるのだが、反面そのバックグラウンドが膨大化すると、このように逆に理解を妨げることになる。然り。
だがもちろん、これはテクニカルタームに限った問題ではない。
たとえば、「宗教」という単語。
一般的には、教祖・教会・教典・教団のワンセットを示す言葉だとされているが、さてそれがそもそも「西洋キリスト教型の宗教こそが宗教である」とするところからきている考え方の一つに過ぎないということこそ事実であるのだが、そのバックグラウンドは全く活かされずに「理解」されている。
さらにテクニカルなことを言えば、宗教と「宗教」は全く別の意味を示し、後者が先に述べたようなキリスト教型の宗教を示すのに対して、前者はほぼ人間の精神活動全てを含むのである。
「限ったことではない」といいながら、テクニカルな話になっているというあたりが、今の自分の限界です。

そして、私は非モテ問題と総称されるものを「世の中ミンナで話し合うべきモンダイ」とするのにどうしても違和感があります。徹頭徹尾個人の問題だろうと。

話を戻せば、この点などまさに「個人の心情」の吐露そのものであって、さらにいえば「私情主義」つまり「私小説主義」とでもいうべきものであって、そこがまさに「ブンガク」ではなく「文学」的であると指摘するゆえんである。


そして話は、「個人の心情=体験」に基づくエンターテイメントの賞賛へと流れて行き、余芸としての、「消費単位としての個人」というものが立ち現れてくるのであるが、

これは実は昔の非モテ(仮に非モテ1.0とします)にはあまりない考え方です。例えば伊集院光とか全童連とか童貞.COMあたりからするとあくまでもエンターテイメント、つまり「ネタ」の一部であると。

それ、すなわち芸人として確立できる人間がいかに少数かという点、そのインフラ的、経済的、才能的、バクチ的困難さについては、ややもすれば心情のかなたに追いやられているようでもある。


とはいえ、そうした芸が人をひきつけていることは間違いないわけであり、かつ「論壇」と皮肉られているネット上での非モテ議論が世の関心を引きにくいこともまた間違いはないのである。


そこを、「文学と評論」といったわけです。


まぁ文学/ブンガクという話が重要なのではなく、評論書よりも小説のほうが売れてるでしょ、ってくらいの話です。念のため。