アンカテのいじめ対策案はぬるいどころか最悪である

アンカテ(Uncategorizable Blog) - いじめ問題の解決を見て傍観者が不安になるような解決方法が正しいアプローチであるを一読してそう感じた。
二度読んでやはりそう思った。
このいじめ対策案はぬるいどころか最悪である。



まず、その基本コンセプトには十分同意する。

「濃縮された毒を再度社会に投げ返すようなアプローチ」とはこういう意味で、いじめ問題が解決した時に、我々が納得して安心してしまうような解決は本当の解決ではない。解決によって当事者は安心しても、それを見ている無関係な我々の間に言いようのない漠然とした不安感が湧き上がってくるような解決が本当の解決だ。

だが、そのための手段として提示されたものがあまりにもひどすぎる。



私はいじめ被害の経験者であり、その被害は学校においても、社会においても受けてきた。
対して、私がブックマークでよく使う[これはひどい][死ねばいいのに]というタグ付けは、まさに暴力そのものとして放たれている。
スルー力(ちから)*1のない人にとっては、さらにまして暴力と映るだろう。
私はまさに被害者でありかつ加害者である者としてここにいる。
それを恥じつつ、せめて正そうという思いだけは消えたことはない。
その自らの毒を引き受けるジレンマだけが拠り所だ。



しかし、である。



いじめという犯罪対策の切り札のように提示されたサインズ・オブ・セイフティー・アプローチ(SoSA)という解決法では、「毒を投げ返し受け止める」ことはおろか、「不安を湧き起こす」ことなどには、全くつながらないのではないか。
それは切り札となるどころか、むしろ、それは最悪の状況を生み出す結果にしかならないのではないか。


SoSAなるこの手法の発想は、「虐待の原因は当事者には無い(加害者にも被害者にも)」として介入者と当事者が連帯して解決の道筋を探るということではないかと思う。

上の引用にあるように理解するなら、SoSAとは「共同体の回復」のための方法論ではないのか。
だとすれば、これをいじめという犯罪に適応することは、恐るべき誤りであるよりほかない。
つまり、この方法論を適用するということは、「子供共同体神話」に基づく「中間集団全体主義」(内藤朝雄id:suuuuhi)の再構築を促すという最悪の結果をもたらしかねない、ということである。



「子供は子供同士わかりわなければならない」、そして「みんな仲良く付き合わなければならない」。
「友達は多ければ多いほどいい」、いや「友達は多くいなくてはならない」。
この暴力的な精神論にいったいどれほどの子供たちが傷つけられてきたというのか。
そして、その「美しい」精神論に基づく全体主義的圧力こそが、まさに当の子供たちの中に強制力として働き、そして、そこで形成された集団からいじめという凶悪犯罪が発生しているのではないのか。


SoSA的なものが成功するとしたら、「まともな」人間と「まともでない」人間の距離は、思いの他近かったということになって、両者を別物として捉えることに再考を促す。
このような手法は実証的に評価されるべきだ。いかに直感に反していようが効果があればよいやり方だし、いかに思想的に美しくても効果が無ければよくない。ソーシャル・ワーカーが開発し業界関係者の間で評判となっているようなので、効果はあるのではないかと思う。

なにやらずいぶん褒めちぎられてはいるが、こんなことはわざわざソーシャル・ワーカー様からご大層に言われずとも、当の子供たちはすでに、十分に、十二分に、承知している。
そして、だからこそ、いじめという凶悪犯罪に走っているのである。
「まともな」人間と「まともでない」人間の境界があいまいだからこそ、傍観者たちは犯罪に加担することで擬似的に境界を区切り、自らの被害を遠ざけるという「適応」行動*2を取っているのである。



だがそれは所詮、子供の頭で考えた「適応」行動に過ぎない。
つまり、「この学校という閉じた小さな世界が自分にとって全てである」という思い込みを大前提にした、極めて矮小な「適応」行為でしかない。
より大局を見渡した時に、社会という場から見た時に、人生という時間から見た時に、恐ろしく小さな枠に過ぎない学校という自空間を、圧倒的に相対化させる視点をもたらしてこそ、真に「適応」の名にふさわしい行動となるのである。
それを教えることこそが、大人のはたすべき役割ではないのか。
その小さな世界を聖域のようにまなざし、荒廃をほころびだと矮小化し、都合のいいように糊塗するような施策をもてはやすような行為は、断じてやめるべきだ。



そして、この「いじめ犯罪対策案」には、重大かつ根本的な誤りがある。
そもそもよく読めば、このサインズ・オブ・セイフティー・アプローチ(SoSA)とは、家族間犯罪としての児童虐待に対するアプローチであることである。
そのことに十分、注意せねばならない。
山梨臨床心理と武術の研究所: 子ども虐待防止シンポジウム



なるほど子供が被害者になるという点では、虐待といじめはフレームを同じくするように見えるだろう。
だが、それを同一視することは、ハッキリ言ってあほ丸出しの大間違いである。
寝言はオーマイニュースで言えといいたい。



虐待という犯罪が、血縁関係によって結ばれた家族という一生にわたって続く共同体内部で起こる犯罪だからこそ、SoSAという手法で「共同体の回復」が図られるのである。
にもかかわらず、
学校という時間的かつ空間的に限定された、特殊かつ異常な非血縁関係的な共同体内部で起こるいじめという犯罪に、その「共同体の回復」の手法を適用していったいどうしようというのか。



そこで導き出される結論は、「みんなが悪い」「みんなに責任がある」「みんなで仲良くしよう」という怖気の走る醜悪極まりない全体主義的精神論でしかない。
恐れ多くもソーシャル・ワーカーご推薦の舶来新奇な方法論によって、「美しい日本の全体主義」にお墨付きが得られるというわけである。



それでいったい誰が救われるというのか!!
そのまなざしこそ、学校を聖域として祭り上げ、虚像を肥大化させ、子供共同体という神話で被害者を押しつぶし、自殺へと追いやる元凶そのものである。



こんな誤った方法論を嬉々として持ち出すとは、なるほど傍観者としてうまく立ち回ってきた精神の賜物だろうとしか思えない。



あえて言おう、[死ねばいいのに]。






さらにいえば、冒頭の「長期的な解決にはならない」といった違和感もピントがずれている。
一体全体、犯罪者を即時隔離しないで解決する刑事事件というものがあるのだろうか?
「長期的な解決」と「即時的な対応」を、ごちゃ混ぜにされては困る。
そういう事物に対するまっとうな分析も検証もなしに行われた施策の弊害の典型が、スクールカウンセラーというどこまでもはてしなく無力な制度ではないのか。
だいたい「長期的な解決」を言うのならば、「犯罪被害者が被害から立ち直って新しい自分の人生に踏み出すこと」こそが、真に「長期的な解決」ではないのか。



「仲良しごっこを強制してそれで丸く収める」など、それこそまさにいじめという犯罪である。






アンカテを検索した所、どうも読んではいないようなのだが、速やかに早急に一刻も早く『いじめの社会理論』ASIN:4760120882 を読了してください。
どうやら話はそれからだ。

*1:いいかげんしつこいか?w

*2:イヤな言葉だ……シロクマさんご結婚おめでとうございます。死ねばいいのに。