「わたしの物語」を読むとは、「他人の想像力」を受容すること


煩悩是道場 - 小説と「他人の心」
http://d.hatena.ne.jp/ululun/20061221/1166673496


ululunさんの言うように、確かにジャンルの問題ではないでしょう。
では、なぜこれらを特別視したのか。
改めて自分に対する説明としても、もう一度考えてみましょう。



ミステリー、そしてSFといえば、「今日の早川さん」を引き合いに出すまでも無く、ハヤカワ文庫、創元文庫といえば、翻訳物が主であることは明白です。
さらにファンタジーにしても、トールキンの昔からローリングの現在に至るまで、翻訳物がそのジャンルの主となっていることは明らかでしょう。
というか、ラノベ的な剣と魔法のファンタジーなどは、SFから派生したものとも言われています。



対して、何か自分が「私小説」という意味で小説といったような感から見るに、日本人の作家の手による小説をほとんど読まないということが、裏返しの真実として明らかになります。
つまり、母語として自らが思考に使用する言語を、他人が独自に扱った場合、わたしがそれを認知することが非常に困難であるということです。
そう、問題は「日本語の使われ方」です。



翻訳物においては、異言語を母語に変換する過程で文章に対して最大公約数的な処置が施されています。
読み手に伝えること、読み手がわかること、それを目的としたフィルター処理が働いています。
それが文体の灰汁を取り除き、クリアな文章を提供しているのです。
そこに、わたしは引かれているのだと思います。



対して、いわゆる小説というのはどうでしょうか。
私小説はもとより、群像劇や恋愛物も同様に、何かグネグネぐじゃぐじゃとしたうっとおしい湿気た文章がからみ合っているのが常ではないでしょうか。
村上春樹の文体など吐き気を催します。
その異様に、わたしは拒否感を覚えるのです。



ここから派生した問題が、「趣味は読書です」と言ったあとの会話に関する困難です。
「本を読む」といえば、まず日本人作家を前提としてその名前を聞かれ、そして次にどんな文体が好みなのかを聞かれる、というこの一連のスレテオタイプな流れが、わたしにはほとんど理解できません。
まったくもって意味のない質問です。
なぜ人はすぐに文体などに興味をもつのでしょうか?
そんなものは書けば勝手に出来上がるし、必要以上に自意識が染み出たものなどおよそ読みを妨げるものでしかないでしょうに。
もちろん、レトリックや言葉のリズム、文章テンポの面白さなどもあるでしょう。
が、それをわざわざ好きだと言う、言わなければならない、まねしようと思うのが普通だなどと言う彼らは、いったい何を読んでいるのでしょうか。
読書における目的は内容であって、外形や形式ではないでしょうに。



ミステリー・ファンタジー・SFを「わたしの物語」だと言ったのも、それらが主に作者個人の抽象的な、あるいは批評的、論理的な構想力によって組み立てられたものだ、ということです。
それに対して、私小説・群像劇・恋愛物では、具体的・現実的な人物、より端的に言い換えれば、現実の社会に近い人物の造形や心理描写がなされます。
それがおそらくはわたしにとっては大問題なのです。
「他人の想像力」の受容とは、「「他人の想像力」に対する想像力」といってもいいと思いますが、その「想像された情念」というものに一向に興味が向かないのです。
わかりやすい例を挙げるなら、あのタイタニックの映画など、ダラダラした部分を切り飛ばしてさっさと船を沈めろ!と言いたくなります。
あるいはミステリーにしても、登場人物が話の本筋たる謎とかかわり無いところでグダグダしていると、犯人の代わりに殺してやりたい気にもなります。
論理から外れた情念は、わたしにとって、その情念を論理的に説明されない限り、およそ理解できないものなのです。



ululunさんがいう「群像劇2.0」としてのブログ、あるいは「私小説2.0」としてのブログ、それを読んでいるから説得力がないというのも別角度から説明できます。
わたしがブログを読むにしても、あまりに自分語り自分語りしたような雑記ブログは、最初から目の中に入りません。
そもそれが文章であると認知しません。
わたしが主として読んでいるのは、あくまで他人に読まれる=読ませることを前提とした、批評や解説、あるいはネタ的な文章です。
故に、そうでないものに対する「寝言ポエム」という言葉が生まれたのです。*1
そこに論理が無い限り、わたしはそれがまともな文章であると認知できません。
注意を向けることができないのです。
もちろん、これが一分の例外も無い鉄壁の原則として機能しているわけではありませんが、群像的劇あるいは私小説的なブログをわたしが読むことは、ほぼありません。



というわけで、別にわたしがブログを書いたり読んだりしているからといって、私小説嫌いと整合性がつかないわけではありません。



「ジャンルに対する個人的な好みを、書かれている内容にすり替えている」というより、構造的な問題を言うのに、妙にポエポエした文章で書いたことが、誤解の元だったのかなと思いました。

*1:一抹の自戒も込めて