心理主義の源泉

信仰あるいは信心の問題。≒「信仰の本質」として規定される「信心」の問題。

表(オモテ)と裏(ウラ)の存在の認知区別。表=顔・行動と裏=心・内面。

内省的自我がまなざすそれ自身が心理主義の源泉?

独我論=内省的自我=近代的自我=デカルト的コギト(≠デカルト*1

心脳論*2の限界は、単純に言えば母語となる言語の存在。その存在を暗黙の前提とするあまり、それについて無批判=無自覚になっているところ。

「我思う故に我有り」とする、「我」は普遍的意味を持つようにも思えるが、その実、母語の限界をはらんでいる。母国語により規定される範囲の中での「我」でしかないという事。

西洋の我、東洋の我、中東の我、アフリカの我。つまり、それぞれが存在する。

ところが、「我」の限界性=母語制限は、その「我」の生成論的側面に目を向けたときに再び普遍性を取り戻す。

内省という思考=志向の普遍性である。

心の問題を脳に帰するなら、焦点とすべきは言語ではなく、メディアではないのか。たとえて言うなら、問題とすべきはOSではなくBIOSではないのか。

まなざしは再び脳へ。

この世には二種類の人間が存在する。健常者とそうでない者である。

その「そうでない者」の脳こそが内省を過剰にし、否、内省の過剰を常とし、母語の壁を超え、いや、その壁をくぐり抜け、セカイ=思想の共有をはたすのではないのか。

そして、その個別的、孤立的、独立的、孤独的な絶対個人の他者否定=他者不認知が、また翻って、万国万人共通の人間精神という「「我」」を生み出し、それを無自覚に自明視、当然視、絶対視することから、

心理主義が発生しているのではないのか。

*1:この辺は難しいのでまだわかってない

*2:独我論=内省的自我=近代的自我=デカルト的コギト