半径ワンクリックの「Web3.0」〜「自己責任」化する情報の編集・収集〜

ついカッとなって登録した。今は反省している

半径ワンクリックとは - はてなダイアリー


自らがもつ趣味志向によって偏って登録された、RSSリーダーソーシャルブックマークなどから得られる、ごく限られた狭い範囲のネット社会の領域を指す言葉。
転じて、対象者の知見の狭さと、受動的な情報収集に安住する様を指す。
自分に対して使うときは自嘲表現となり、他人に対して使うときは皮肉となる。
程度の差こそあれ、ネットワーカーであれば誰しもが陥る現象である。
初出:http://d.hatena.ne.jp/yositune/20070318/p1


というのを登録したんだけど、ブクマ見てちょっと考えさせられた。
ちょっとウケすぎだろ、というのはおいといて、気になったのがこれ。

id:YasSo >「自分に対して使うときは自嘲表現となり、他人に対して使うときは皮肉となる。」もっと良い意味として広まって欲しい気がするけど、まあこれはこれでいいか。


これ見て、そうだよな、ああ、なんて自分の頭はこうまでヒネくれているんだろう、とショボーンとなってしまったのです。
まるでエリ巻きをはがされたジラースのように。


通常の3倍の速度の理由のように言い訳がましく後付け設定を語ってみると、5分で定義を書いてる途中でポジティブシンキングな意味に関してもふと脳裏をよぎらなかったことはないんだけど、やっぱり元の文脈からしてもちょっとマイナスオーラが強いよねそうだよねとバーチャル円卓会議でそのような結論を出して、そんでもって、諸刃の剣的な最期の一行を付け足してなんとか毒は抑え目にしたんだけど、それが限界だったかも。
ほら、5分だし。(言い訳)


RSSとかブクマとかは、どうしても興味関心のない情報から意図的に「自己隔離」を図ってしまうような側面が確かにある。
でも、それは裏を返せば特定の積極的な分野の情報に対して密度濃度の濃さを求めている、という意味でポジティブに捉えることももちろんできる。
とはいえ、そこに生まれているのは「一般ニュース:自分でフィルタリングをかけたニュース」というある種の対立構図で、後者に偏りがちなところをして「半径ワンクリック」と呼ぶ言葉のインパクトを感じてキーワードを書いたんだった。
あーでもこれって、「新聞・テレビ:専門誌・業界紙」という構図と基本的におんなじだよな。
一般的情報と専門的情報。
その種別・区別・色分けをするためのツールがRSSやブクマだってことか。


とすると、これはネットによって、細分化、個別化、「自己責任」化する情報の編集・収集の問題でもある、か。


何が問題となるかって?


それは、この一点だ。


「ネットには一般的情報が存在しない」


そういうこと。
そう、すべてがそもそも個別で、あるいは専門的なのがネットなのだ。


もちろん、旧メディアであるところの「新聞:雑誌」という構図において、それらに対する信頼、はたまた信仰がベースにあったことは否定しない。
しかし、程度の多寡はともかく、同じことはネット上の情報にも当然、あてはまる。
梅田望夫吉田アミが言うことはすべて正しいのか、ってことだ。


それよりも問題なのが、対称軸がないまま自分の趣味関心の偏りをダイレクトに反映した「専門的情報」が作れてしまうところだ。
それこそ「半径ワンクリック」の落とし穴である。
ネットにおける「一般的情報」とはいったいなんだ?
RSSやブックマークに対峙される存在となるのはいったいなんだ?


現状において、それは存在していないように思える。あるいは、「まだ」。


「ある程度基本を抑えておく」という意味での「一般的情報」として見たとき、やはり新聞という存在の優位はゆるぎないものに思える。
現状において一番、「ネット上での一般的情報」の位置に近いのは、新聞社のニュースサイトだろう。
あるいは、「半年ROMれ」という慣習によって「一般的情報」をくみ取ることあげる人もいるかもしれない。
が、それは結局、その当人の趣味関心の偏りを定型化≒固定化させるだけではないのかと思える。
また、あるいは、梅田望夫小飼弾切込隊長なんかのアルファブロガーをあげて、これこそ「美しいWeb2.0」の「一般的情報」だと称える人もいるかもしれない。
しかし、というか、だから、それこそ「朝日を信じる」や「産経を信じる」などといったネットで笑われる「信仰」といったいどこがどう違うのかというハナシだ。




自分という見えない編集フィルター。「Web3.0」というものが「来る」のなら、目下最大の敵はこれだろう。






<PS>
ポジティブな意見を書こうとしたつもりだったがいつのまにかネガティブになっている件について。
もうやだ。