代理母と少子化をめぐる混乱

思いつきの書き飛ばしでこのセンシティブな問題に対して何をか言おうとしたことが、そもそもの混乱の原因だったのだ。
代理母少子化をめぐる混乱」――先の書き飛ばしはまさにその典型ではないか。


要点を先取りするなら、向井亜紀は決して「少子化問題」という大きな問題の解決を求めているわけではないのだ。
彼女が行っているのは、あくまで彼女のいる立場――不妊治療者というマイノリティのための「生殖補助医療の法律」のための闘争なのだ。
決して、「少子化問題の解決」等という大儀を掲げているわけではないのだ。


では、なぜ先だっての私のように、彼女の行為を「少子化対策」の旗振り役と見るような先走った感情的な誤解が生まれるのか。


それは、「代理母」という問題が「子供を生む」ことに関わっているが故に、俯瞰で見たときに「少子化」というフレームに入っているように錯覚して見えてしまうということだ。
そして補足するなら、政府の「少子化対策」にこの「不妊治療」が含まれていることも関係している。
さらに言えば、「代理母」という問題がクローズアップされてきたのが、「少子化」が問題視されるようになった時期と期を一にしていたからである。


少子化」と「不妊治療」――二つはそもそも別の問題なのである。
別の原因に基づく、別の解決法が必要な、別の問題なのである。
ただ、それが「子供の出生」という現象においては同じであるが故に、まるでひとつの問題であるかのように見えてしまうのである。


ここを誤解してはならない。


これを混同してはならない。


これらを誤解し、混同するが故に、まるで教育再生会議がごとき私情と私憤をコンクリートミキサーにかけてぶちまけたかのような見るに耐えないショービニズム(排外主義)的なコメントが跋扈するのである。






しかし、それでも彼女の行動に対してはやはり何か違和感を感じる。
その行為が、血族主義をさらなる法によって補完しようとする試みに見えるからだ。
血族主義でできあがった戸籍制度をさらに強化するだけのものに見えるからだ。
それが、なぜ「養子」*1という選択肢があることで「満足」しないのか?という先の疑問だ。
それこそはまた別の問題、戸籍制度の問題であるのだが、、、。

(別の問題へと続く)

*1:制度上の扱いとして