啓発するほどの「自己」はありや?

出口一族の自己啓発傾向はやはり大本教由来なのか?
こっちは受験のカリスマで、


出口汪 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%BA%E5%8F%A3%E6%B1%AA


こっちはビジネスのカリスマらしいですが、


出口 光の「天命と経営」
http://www.jmca.net/booky/netuniv/tenmei/tenmei.html


どっちも大本教の出口一族。年齢的に出口王仁三郎のひ孫あたりか。


出口王仁三郎 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%BA%E5%8F%A3%E7%8E%8B%E4%BB%81%E4%B8%89%E9%83%8E


まあ、目立つ活動というのが売り物になる、あるいは「売らなければならない」ものとしての自己啓発に偏りがちな状況が現代社会にはあるから、ともいえるか。


また、「生きることは改善だ」とでも言うような、教養主義的かつ構築主義*1かつ上昇主義的な人間主義ヒューマニズムがその根底を支えているようにも思える。


でも結局、それって外部評価的な人生観の自明視(あるいはその強制)なんだよなあ。


……やっぱり、このヒューマニズム=人間観こそが「今もっとも破壊すべき対象」なのではないのだろうか?


間主観性」ではまだ足りない。


間「主体」ではなく間「主観」という限り、個人の内面の自明視がまだそこには大きく残されているからだ。


いかにして「内省的主体」に変わる新しい「交差的主体」のパラダイムを広げる、のか。


人間観の転換なしにテロリズムの時代は超えられない。


なぜなら、テロリズムとはヒューマニズムの一つの帰結に他ならないからだ。


マルチチュード」ではおぼつかない。


情報の海に融けるようなそれは、いささかユートピア的に、あるいはSF的に過ぎる。そこまでの主体の情報化には、まだワンステップ足りていない。


だからこその、「交差的主体」なのだが、それはまちがっても「一個の完成」を目指すものではない。


「変容する交点」のようなものとしての自律的な仮設領域への模索、となるはずなのだが、もうしばらくは、まずテロリズムについて考えることにしようか。

*1:教養小説ビルドゥングスロマン