心を教育することが「心の闇」を生む

福島の少年には心底、同情する。
彼の破滅に泣くものがいなければ、私が泣こう。
これは二重の意味での悲劇なのであり、決して卑俗なエンターテイメントの文脈での「悲劇」ではない。
しかし、既に「精神的な不安定さ」が取りざたされている以上、これが「心の闇」という規定路線で「処理」=「料理」=「報道」されるであろうことは想像に難くない。
それは引いては、真の原因を隠蔽するという第三の悲劇、社会にとっての悲劇となるはずなのであるが、その悲劇に気づくものは所詮少数派でしかなく、多数派はその悲劇すら「悲劇」として消費していくだろう。


かくして、悲劇は再び、三度、万度繰り返される。


この破滅を瀬戸際で救うのが、かつては宗教という回路を通じて社会に還流されていた哲学なのであるが、もはやそれが望むべくもないことは過日の言及のとおりである。
この破滅の淵に立ったものが寺に連れられたとして、そのものと正面から論を交わせる人間がはたしているのだろうか?
せいぜい通俗道徳を説くのが関の山であろうし、そして通俗道徳を越えたところにこそ破滅を食い止める哲学があるのであり、つまりはそれで救われるはずもなく、そもそも通俗道徳で救われるようなものは救いを必要としていないものなのである。


そして、この通俗道徳は教育において如何なくたれ流される。


たとえ、「主観」形成の真実がこのようにあったところで、

「結論から言うと、自己形成の過程で、他者との社会的なコミュニケーションを通じた試行錯誤によって、「承認」を獲得することが必要不可欠な生育環境で育つことが、大切なのです。そうすれば、人は「自分が自分であること」「自分が価値を持った存在であること」と、「他者の存在」「社会の存在」が分かちがたく結びついたものとなるわけです。」

と解説されている。一般的には、このような生育環境で育てられた「主観」が、「人を殺せないように」働くことになる。この「主観」がなければ、ある意味ではランダムに「人を殺せるような」人間が生まれてくることが予想される。どのような確率値でそのような人間が存在するかはわからないが、システムとして、そのような人間を排除できるという保証はなくなる。「承認のシステム」があれば、確率的には起こりえない、「人を殺せないように育つ」ということが定常的に実現するのだという論理だ。


数学屋のメガネ - 人間の主観を客観的に理解できるか
http://d.hatena.ne.jp/khideaki/20070516/1179277343


現実に行われるのは、心理操作術としての「心の教育」だ。
それが通俗道徳の域を出ない、即ち上記のような「主観」の形成になりえないものでしかないことは明白だ。

青少年の起こす事件をすべて「教育の失敗」とみなす発想は、青少年の生活全体を、大人が管理・コントロールできるし、すべきだという、ある種の社会的な暗黙のコンセンサスがあることを意味しているのではないだろうか。

会津若松の事件では、教育の問題として語られるだろう。そこで語られることは、教育が少年の心の闇を作り出した。つまり、教育の失敗が今回の事件を生み出したのだということ。そして、その後に必ず奇妙なことが起こる。少年の心の闇を作り出したはずの教育によって、今度は少年たちの心を闇から開放しようとする。いわゆる「心の教育」が主張される。


今日行く審議会@はてな - 教育と心
http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20070516/1179276371


だが、上記にあるように「治療技術」としての「教育」が失敗したのでもない。
そもそものベースとなる「教育観」=「人間観」が、もはや破綻しているのだ。


「教育の失敗」=「技術的な不備」が見つかったとして、立ち返られる「教育の原点」=「教育観」=「人間観」=「人間主義」=「教養主義」こそが、「心の闇」を生む源泉なのだ。


「心の教育」が「*1個人の内面に「自然に備わった」心」を育てることである以上、それは結局、個別、独立、単独の「内省的主体」あるいは「内省的自我」を強化していくことにしかつながらない。


それは、その個人がその「人間主義教養主義」に親和的であればあるほどそうなのだ。


「あるべき心」という手本に向かって「自らの心」を内省的に自律的に自発的に自然に生育させろという指導方針に従って、「自らの心」を内省的に自律的に自発的に自然に生育することが、個々人の内面のブラックボックス化に拍車をかけているのだ。


自然に、個別に、独立に、単独に「育てる」ことができるものが「心」だとされている限り、「心の教育」はそれ自体が「心の闇」を産み育てているものであるというほかないのだ。




これは、あまりにひどい。


すべての「心」を説くものに呪いあれ。


さもなくば、「沈黙」をもって呪いとしよう。

*1:可能性としての