無知を晒すための武器として、無知をかわすための盾として――障害という「身体」論

身体論として語られる人格/発達障害者排斥 - 呉市振興委員会
http://d.hatena.ne.jp/torly/20071210/1197311127

反論というのではなく、補足として。


「障害を身体性として捉えさせること」を、「容姿の特徴や振る舞いによって表面に現れる身体性がいじめやからかいといった排除の種になっている」という例にみられるものだとして、それはすでになされているという発言。
これは、私の考えるものとは全く相反する想定で、むしろ私が言う『障害という「身体」』の強調とは、こうした事態をできる限り縮小していくための案としてある。


次に挙げられた「俗流障害論」における「ヤッてみろ」発言にしても、その根本の部分で先のからかいやいじめと全く同じものとつながっている。


それこそが、「こころの問題はこころの持ちようで直るよ!」という素朴な狂信だ。


「ヒネくれた、捻じ曲がった、歪んだ精神を正すことをこそすれば、正す努力をさえすれば、たちまちのうちに、容姿は明るくさわやかに、行為は素敵に洗練され、処女・童貞ともオサラバだ」


id:torlyさんが挙げる二つの例に通低する精神をまとめれば上記のようなものになるだろう。


だから私はそれを「心理主義」だというのだ。
「個々の人間が抱える問題について「こころ」を前面に押し出せば押し出すほど、それは差別を、偏見を引き寄せる隙になります。」というのはそれへの危惧だ。
だからこそ、「心のもちようなどではどうしようもない問題がこの身に瑕疵として生まれつき刻みつけられている」という事実を、この国の教育レベル、医療レベル、社会レベルに徹底的に刻み付けること。
それが、障害という「身体」論だ。


障害という肉体的・身体的な事実・現実を社会的に認知させていくことで、あまたの老害が口ずさむ「人間力」や「コミュニケーション能力」や「自己責任論」や「心の闇」などといった体のいい俗悪な罵倒、差別発言を、逆に物笑いの種にしていく。


そういった無知を晒すための武器として、無知をかわすための盾として、障害を「身体」的なものとしてより強固に前面に押し出すことこそが、もっとも現実的でもっとも即効性のある戦略なのではないか、と思うのだ。








だが、橋下のような「健全なレイシスト」が政府与党に知事候補として公認される時点で、こんな寝言など毛ほどの意味もないか。