[試考]これはいい伊集院ラジオですね【広告】『自分探しが止まらない』【書評】

言い尽くそうとすればキリがない。
だが一言で言うなら、次のようなものになる。


「これはいい伊集院ラジオですね。」


そしてもう一言添えるならこうなる。


「『自分探しが止まらない』は買ってはいけない


長文を読む気がない向きには上の一言二言がこの記事の趣旨であるので、以下はその補足だと飛ばしてもらって結構。
献本していただいたことに対するありがとうございますというお礼もそこそこに、以下はそれへの偽りない感想を書こうと思う。


正直なところ、この本を前にして悩んでしまった。
これでは何も書かれていないに等しいのではないのか、と。
そして、同時にぽつぽつでてくるネット上の書評をみて、それらが例外なく賞賛の意を示しているのを見て、どうしようもない違和感にかられてしまった。
頭を抱えて、もう書くのをやめようかとも思い、またほっといても、後藤和智方面から八つ裂き光輪*1が飛んでくるだろうと思っていたのだが、その気配がないので、やむなく、あくまで自分のためというスタンスで書ききることにした。


ではなぜ、この本は「買ってはいけない」のか。


買ってはいけない」というのは、わざわざ年若い人間が買って読むほどの意味をこの本は持たないということであり、その一方、若者を見下して溜飲を下げたい年長者が読んでこそ意味がある本であるということである。


これはジャンクフードだ。
でん粉のかたまりをポテトと称して売っているようなものだ。
これ一冊程度読んだところでは毒にも薬にもならないが、こんな本ばかりを読んでいればいずれ近いうちに心身に不調をきたすという意味で、この本まさにはジャンクだ。


そして、その本質が「伊集院ラジオ」だというのは、「サブカル深夜ラジオを聞く俺たち」という連帯感を前提として、かつそこから一歩も抜け出ていないという意味で、だ。


では「俺たち」はどこにいるのか。
この本の書評には、「涙もろい隣人」による「お幸せ」な書評ばかりがやけに目に付く。
「かわいそうだね」と涙してみせるエンターテイメントとして消費されている様がありありとわかる。
そして、そのベースにあるのが自らの立場の比較優位、自分が彼らを「嗤う」立場にいることへの確信、安心だ。
なるほど、この本は「滑稽な姿」を描き出している。
この本を肴に「涙」を消費する人々の「滑稽な姿」を。
パチンコになったフランダースの犬といえば、その醜悪さがより伝わるだろうか。


あとがきのあとがきでは、オチとして「三浦カズや野茂英雄」を想定していたが引っ込めたとある。
だが結果的に、その締めの「前向きに生きる姿勢」は「中田英寿須藤元気」にダイレクトに結びつき、自分探しの再生産装置と化している。


そこでこそ、本の否定的側面が浮かび上がる。
この本は「伊集院ラジオ」としての役割しかはたしていないのではないか、という負の側面が。
何度でも言おう、この本は「伊集院ラジオ」だ。
それ以上でも、それ以下でもない。


この本がなんなのか一言でいうと、自分探し版の「D.T.」なのだ。
「童貞はつらいよね、俺も「D.T.」だからわかるよ」というアレだ。
余裕と保険を抱え持ったその上で、綱渡りをしているようなフリをするそういう欺瞞に満ちたパフォーマンス。
馴れ合いと馴れ合いが打算でからみあうパフォーマンス。
似て非なるものに見えるかもしれないが、これは革命的非モテ同盟にも同じことが言える。


もっといえば、この本は若年者向けのサブカル本では辛らつな批判ではなくぬるい共感を示してさえいれば、人は簡単にダマすことができるという実例だ。
剣と魔法やSFといったファンタジーに満ちたライトノベルライフハック版とでもいえばいいのか。
両者は同一平面状にある毛色の変わった兄弟のようなものだ。


あるいは、両論併記で藪の中か。
この本そのものが「メタ自分探し」であり、つまり自分探しビジネスそのものの一端をまぎれもなく担っている。
そのことを、二つの選択肢――「ベタな自分探し」(消費活動)と「メタな自分探し」(ビジネス活動)の二つを並べておくことで、さも中立であるようにふるまう事でごまかしている。
この本を温かいという人間がちらほらいるようだが、この本は温かいのではない、「生温かい」のである。
それは心地よい温もりではなく、気色の悪い生ぬるさだ。


全体を通じて主張というものがほとんどなく、それでいて分析的、暴露的な仕掛けにも不足している。
だが、それでこそはたせている役割というものもある。
これは「本を読まない人のための本」なのだ。
ゴシップ的な内容を並べてまず注目を集め、そしてそこで多少なりとも本が読める人間であれば、とうに知っているような事実を「あらためて紹介」する。
「お父さんのためのワイドショー講座」的な手法といえばいいのか。


この本のタイトルが「なぜ自分探しは止まらないのか?」ではなく、「自分探しが止まらない」である理由はここにある。
それは、社会分析でもなく、歴史研究でもなく、現在の事例集としてオチのないワイドショーを「嗤い」ながら楽しむという役目をはたしているこの本にふさわしいタイトルだ。


この本について、誰も何も言えていない。
誰も、何も。著者でさえも。
さしずめ主張のない速水氏の正しい肩書きは著者ではなく、編者というべきところだろうか。
その書いたものに、本人のメッセージがなんら読み取れないのだから。


前著を読んでいないのでブログと合わせた分の印象しかないが、速水氏がゴシップ的なネタに強いことはよくわかるし、目線の鋭さもよく承知している。
だが、今回はそれを詰め込みすぎ、自分で自分の目をふさいだとしか思えない。
「自分探し」という「メディア」に載せて伝えられるべき本人の主張が、なんら感じられない。*2
「嗤おう」という、そもそもの動機が暗に目を曇らせ、甘さを生んだのか。
2010年になる頃にはこの本は相当「古く」なっていることだろう。


だがまた、その主張のなさが、読者を引き止めてもいることも事実である。
私が文章を書けば、トゲを仕込んでしまうところを、罠を仕掛け足を引きちぎるところを、なでるようにそっと触れるだけですませていく。


「いまどきの若者」を消費したがる年長者に対して、一見、娯楽のための若者叩き本という体裁を取りながら、その中身が年長者批判にもなっているこの本は、その意味ではよくできている。
が、若者風情など省みる必要がないほど勝ち逃げを決めた年長者に、はたしてこの本は届いているのだろうか?
その効果すら、あのオビによってもたらされているだけかもしれないのだ。
オビが消えたあとで、一体この本が誰に届くというのだろうか?
また全体を通じて、「ベタ/メタ」というサブカル用語を「共有」していることが前提となっており、そこにも馴れ合い的な姿勢が見え隠れしている。
その点でも、この本がいったい誰に何を伝えようとしているのか、極めてあいまいになっているといわざるを得ない。


それはぬるま湯の温度を維持するには十分役に立つ。
ぬるぬるのローションプレイを好む層にはもちろん受けるのだ。
深夜ラジオで盛り上がることのできる「俺たち」が、「何か」をした気になることで問題を先送りしつつ、問題への意識をとどめるという役割をはたす、のかもしれない。
ぬるま湯の連帯感を形成するには、いい「さし湯」になるだろう。


だが、ぬるま湯で氷河は溶かせない。
そして、氷河を溶かすのは北風でも太陽でもない。
地下深くに折り重なった死骸でできた燃料の燃えカスである。


この本もまた、「こだます沈黙」のひとつというわけだ。








<補>
斉藤環『思春期ポストモダン』の冒頭20ページを読めば、さらにこの本が無意味なことがわかるだろう。
この本は買ってはいけない。だからリンクは貼らない。
そして、この本の個別の内容についての批判はまたの機会に。