私はなぜ「テロリズム」を信仰せしか――NO MORE WAR, NEED MORE TERRORISM

10年間で30数万人が自殺〜イラク戦争より犠牲者多い「自殺大国ニッポン」は長期の内戦状態にある|すくらむ
http://ameblo.jp/kokkoippan/entry-10117667277.html

「これはもう長期の“内戦”状態といってもよいのではないか。ただし、眼には見えないだけの…」という書き出しで始まる「不可視の内戦」と題したコラムを、作家の辺見庸さんが月刊『現代』8月号(講談社)に寄せています。


 日本の自殺者が10年連続で3万人を上回り、30数万人もの人々がみずから命を絶っている状況に対して、辺見さんは、「これがどれほどものすごい数字かは、イラク戦争とそれにつづく内戦による市民の犠牲者数とくらべてみればわかる。米英の非政府組織イラク・ボディーカウントの発表によると、イラク民間人の死者数は2003年の開戦以来、ことし6月までの5年間に最多推計で9万2千数百人である。酸鼻をきわめるイラクの戦闘にまきこまれて非情にも殺される人々よりも、平和国家とされる日本でみずから死を選ぶ者たちのほうが圧倒的に多い。これはいったいどういうことなのか」と問いかけます。(略)

ここで一番重要なことは、リンク先の自殺者の最多割合を占めるのが30代だという指摘ではなく、辺見庸の、あるいは氏のような立場の人間の言葉遣いにこそある。


もはやこの国では、そのような「内戦」や「戦争」などという、一昔前の左翼的な単語をいくら使ったところで、誰もそれを本気で受けとらないし、問題であるとも認識しないということだ。


その意味で、赤木智弘丸山真男を「ひっぱたく」どころか「抱きしめて」いるのだ。


忘れもしない、阪神大震災の時の醜悪なテレビCMで、瀬戸内寂聴が「私たちは「あの戦争」をのりこえてきたじゃありませんか」と言ってのけた時からすでに、「戦争」という言葉は記憶の中へと辞書的に隔離され、現実を構成する言葉ではなくなった。


もちろん、「もはや戦後ではない」というパラダイムが大きかったことも否定しない。


だが、「戦争」という言葉がハッキリと死んだのは阪神大震災が起きた年、1995年だったと考えている。


この年は、オウム真理教地下鉄サリン事件とセットになって記憶されているが、それはまさに「ただの事件」として、即ち「自分とは関係のないもの」として記憶されているではないか。


自爆テロという使い古された手段が行使された911アメリカ中が「戦争」だと沸き立ったのに対し、BC兵器を使った新しい形態の手段が行使されたそれが「ただの事件」になるのが日本なのだ。


日本は戦争など絶対に起きない「平和な国」なのだ。


憲法で戦争を放棄し、頭の中からも戦争のいかなるものかを放棄した国が日本なのだ。


考えることを嫌う伝統を抱きしめ、戦争というものを、それがどのようにありえるのかという考察ごと捨て去ったのが日本なのだ。


「戦争」が絶対に起こらず、時々刻々と吹き出す矛盾を「ただの事件」として忘れ去っていくこの国に対し、唯一可能性があるのが「テロリズム」なのだ。


「関係ない、関係ない」と念仏を唱えていた人間が、ある日突然、無差別に巻きこまれる「テロ」だけが、日本において唯一残された「力ある言葉」なのだ。


故に、私は「テロリズム」を信仰する。


無時間的、無差別的に巻き起こされる、その実体化した無間地獄を。








以上、5年以内に自殺する確率が、5年以内に結婚する確率を圧倒的に上回っている男の寝言。