「努力」という「量」、「才能」という「質」

日経サイエンス別冊「こころのサイエンス」04」からかいつまむ。 - おれカネゴンの「算数できんのやっぱり気にしすぎとや」日記
http://d.hatena.ne.jp/hachi/20080810#p3

子供を育てるにあたり、子供の知能や才能を強調したり褒めたりすると、予想に反して次のような結果になりやすい:


・失敗に対してもろくなる
・失敗に対して言い訳ばかりするようになる(「自分にはやはり才能がない」など)
・挑戦を恐れるようになる
・短所を改善することをいやがるようになる


対照的に、子供の努力を強調したり褒めたりすることで、その能力にかかわらず、困難に挑戦し、短所を改善し、成績も向上するようになった。


ここで否定的に示されている「知能や才能に対する評価」というのは、ある種の「結果に対する評価」であるといえる。
それに対して、「努力への評価」というのは、行為のプロセス、途中経過、行動そのものに対するいわば全肯定的な評価であるといえる。
ここからわかることは、結果に対するプラス・マイナスの価値判断を優先させることは、つまり行動そのものを認めず、とにかく「結果ありき」で「よい結果」を出さなければその行動は「無意味だとして切り捨てる」という意味を示すことになることがわかる。


行動の積み重ねの数による経験の蓄積がまったく省みられずに、結果だけが評価の対象となるのだとしたら、それこそが「学習性無気力」を引き起こしているのだといえるだろう。


上の孫引用では、子供に対する教育の問題に限られているようだが、この構造は大人社会の「成果主義」や「即戦力主義」に対してもまったく同様に通じるのではないだろうか。
そのわかりやすい典型的な例が、ちょうど今やっているお祭り騒ぎ、オリンピックだろう。
「メダルを取らなければそこにいる意味がない」という空気は、メダルラッシュ(笑)を期待するマスコミによって十分以上に振りまかれている。


結局の所、「失敗」=「努力」を絶対に許さない・認めない・評価しない・否定する社会が「あたりまえ」だという中で、「結果」=「能力」=「人材」だけをもとめるという今の風潮が、どれほど都合のいい寝言に過ぎないのか、ということだ。

<関連>
質より量に学ぶ - Radium Software
http://d.hatena.ne.jp/KZR/20080808/p1