あらゆる精神状態が「自己責任」の結果なのだとしたら


その鬱状態の中で自殺を選択するという判断をしたとして、いったい誰がそれを責められるというのだろうか?


だいたいそれで死ぬ事が出来れば、あとから他人が何を言おうと文字通り無駄なわけだ。


さらに、自殺に失敗したとして、そうした精神状態の人間に「なんで自殺なんかしようとしたんだ!!」という非難の言葉をかけたとして、それは結局、全人格的な否定の言葉にしか聞こえず、むしろそれによって自らへの否定観はいや増し、自殺への意志は覆るどころか強化されるのではないのか。


誰がどこでどう死のうが誰も大して気にもしていないくせに、なぜ声高に自殺をやめろだのなんだのくだらない寝言をいう人間が引きも切らないのかが不思議でしょうがない。


だいたいそもそもの話だ、「障碍」だの「精神疾患」だのは「正しい人間からの隔離カテゴリ」としてつくり上げられたものなわけで、その排除のロジックに忠実に従えば、当然、自殺という選択肢が結論として導かれることは当たり前の事ではないのか。


「非人間隔離」の社会的装置をそのままにしておいて、その同じ口が「自殺はやめろ」という。せいぜい、「死体の処理に迷惑がかかるから=コストがかかるから=俺に負担をかけるな=俺に関わるな」ということが、その言葉のそこに潜む本音だろう。


じゃあ、富士の樹海で永遠に行方不明になるんだとしたら、それは「迷惑にならない」わけで、それはまさに讃えられるべき「美しい自殺」だ。「死体をさがして供養するのが迷惑だ」って?だったら、最初から捜索なんかしなければいい。


労働力としての価値を持たない人間はすべて排除カテゴリに隔離して「非人間」だとするのなら、「中途半端な人権」など口の端に上らすなというのだ。
なに?そういう「非人間」を「治療して教育して労働力にすることが必要」だって?
ああ、そうか、血族主義的信仰に基づいた「純血の移民」を欲しがる「美しい国」の本音というわけですね。わかります。


そんなものにかけるコストよりももっと安いコストで済む「異民族の移民」を「輸入」する事をオススメしますよ。
そしたら彼らは、「俺」に指図されるまでもなく、彼らだけのコミュニティを構築し、「美しい日本」を汚さない「不可視の民族」として、「俺」に関わる事もなく生きていくでしょう。「自己責任」で。