アニメ批評としての村上隆と、東浩紀のマーケティング(笑)


今日のNHKクローズアップ現代が、一体なぜに全体どういう理由でかこのタイミングで村上隆特集だったので、アートとオタクの門前の小僧の一人としてとりあえず見た。
村上隆の「ビジネス戦略としてのアート」をまとめたあたりはわかりやすく、何というかネットでよく見るライフハック記事の特集を読んだような気がした。
かつ、何年か前の奈良美智とセットになってた時のクローズアップ現代に写っていたサティアンのような製作用スタジオはすっかりグレードアップし、そのままホワイトキューブ(美術館)として使用することもできるんじゃないかというレベルになっていた。
だがそこで、村上作品を完全分業制で制作するために「いきいき」と働いている若者の姿は依然変わらず、正社員なのだろうけど、どこか非正規雇用を思わせるものだった。
そして、ロシア・中東の石油バブルとアメリカ・ヨーロッパの住宅バブル、そして中国の開発バブルに支えられていたアートバブルにのっかり、そうしたビジネス構造を駆使して稼いでいたあたり、なるほどまさしく彼は「現代アーティスト」だったのだと思い知った。
――ついでに、「アートバブルも弾けて先の見えない面白い時代になってきた」なんて恥ずかしい台詞を口にしていたあたり、「あぁわかりやすく成金じみてきたなぁ」とも思った。
とりあえず[死ねばいいのに]。



記事タイトルの前半の意味は、彼がインタビュー内でアニメ批評をしたということではなく、「彼のパフォーマンス全体がアニメ批評である」ということ。
彼はその方法論をして「ピカソの模倣」と言ったわけだが、それがすなわち、アニメやマンガに対する批評の一形態として成立している、ということだ。



と、そこで思い出したのが、つい先日の「アニメ批評の未来は不毛だ」と言っていた東浩紀の記事である。
そのキモはというと、この部分とかこの部分。

ぼくの考えでは、アニメ批評がいまなぜ低調かといえば、知識があるひとがいないとか情熱があるひとがいないとか以前に、そもそもアニメ批評は、読者の(読者の、です。書き手の、ではありません)質があまりに悪すぎて、いま批評を志す人間にとってコストが高いわりにリターンが少ないからです。

アニメ批評が育たないのはなぜか、ライターが既得権益を守っているからだ、編集者が怠慢だからだ、というのはやさしいけれど、本当の原因はぼくはそこにはないと思う。アニメ批評の読者が育っていないことこそが、問題なのです。


マーケティングだといわれる東浩紀の上の発言はマーケティングですらない。(参考:http://watashinim.exblog.jp/8879908/
今日のクローズアップ現代では、村上隆がクソ面白くもなさそうな長編アニメ映画を作ってることも紹介されていたが、それでもまだその方が、よほどアニメ批評のマーケットを開拓する試みであろう。
村上隆は言う、「メッセージが伝わる規模がアートなら10万人止まりのものが、映画・アニメなら20万人、30万人に広がるかもしれない」。
どうみても権威主義的なアート信者かそれに類する人間しか見なさそうなそれをして「子供に見せたい」と言っていたあたりの村上隆のセンスはともかく、実態として「アニメ批評」として機能している彼のパフォーマンスへの間口を広げようするその態度は、コップの中をマドラーでかき混ぜて「“炎上”するかも!」なんて言ってる東浩紀よりはよほどマーケティング的である。
客とは、教育するものではなく、増やすものなのである。
そのための戦略なのである。
そのあたりの筋を違えているのが、東浩紀であり、そしてウメダモチオなのである。
「客が馬鹿だからモノが売れない」。
そんな台詞を吐くトップがいる会社は早晩「亡ぶ」ことだろう。
あのトヨタですら、どこをターゲットにしているのか皆目わからない上にメリットがどこにあるのかまったく理解できないながらも、小型車を開発し販売しているのだ。
ゼロアカなんてやってるヒマがあったら、その前にMBAでも取りに行ったらどうか。



ゲーム世代だった80年代を生きたオタク第二世代は、パロディマンガ≒同人誌という文化をも生み出した。
そして、「良い読者」になるべき90年代を生きたオタク第三世代が生み出したものはと言えば、やはりネット文化だと言えるだろう。
結局、第三世代が今の第二世代くらいの年齢になるまでは「悪い」ままだろう、とでも言いたげなそぶりをするというのは、誰ぞやのお好きな「酸っぱい葡萄」というフレーズがしっくりくるようなものではないのか。
「同人文化は紙メディアだったからこそ拾い上げられたのだ」という言い訳が理由として通用するのは後何年だろうか。
コミケの中の玉石混淆も紙メディアだからこそふるいにかけることができたのだ、というのなら、もういくつと数えるまもなく、インターネットというメディア上で展開する玉石混淆をふるいにかけることができるようにならなければならないのではないのか。
そのための情報技術ではないのか。



東浩紀はまだしもこういうべきだった。



アニメ批評の未来は広大だわ――、と。