嗚呼、美しい「昭和30年代フィルター」

「家族」マーケティングの栄光と落日:日経ビジネスオンライン
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20100122/212372/?P=1


でも同じ光景が、夕日に照らされた長屋だったとしたら……ふしぎ!泣ける!!

「ああ、昭和30年代の日本人は、こんなに美しかったのだ」


 と、長屋からワラワラと出てくる老若男女を眺めながら、いつもそう思うのだ。
 うむ。後ろ向きな態度だ。
 が、仕方がないのだ。だって、休日中の路地に集散する人々は、なぜなのか、どこからどう見てもファッショナブルなカタチをしていない。
 だがそれがいい


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 長屋の人の群れが、美しく見えるのは、たぶん、彼らが外面を気にしていないからだ。


 何時間か長屋の中で身を縮めていて、しばらくぶりに外に出る時、人々の気持ちは、まだ、「外界」に適応できていない。というよりも観察するに、そもそも外出用の服装を身につけていない向きも多い。部屋着、あるいは、狭い室内で楽に過ごすための寝間着に近い衣服を着て日々過ごしている。


 しかも、引き戸を開けて屋外に踏み出す時、住人はまだ、屋内にいた時の、身内同士の、だらしなくくつろいだ気分をひきずっている。当然、パブリックな緊張感を抱いていない。さよう。彼らは、人前に出る際の覚悟を持つ必要もなく、スエットの上下にサンダルをつっかけたみたいな姿で、公的な空間の中に溶け込んでしまえるのだ。


 のみならず、彼らのうちの半数ほどは、周囲が見えていない。差し迫った尿意が視界を狭めている。だから、おもむろに立ちションしたりもする。通路におう吐する酔っぱらいもいる。つまりマナーが守れない。ふだんは折り目正しく暮らしている人々であっても、だ。


 周囲に気を配る余裕を持っていないのは、立ちションや酔っぱらいだけではない。
 街頭テレビに行列する若者たちも、外に出るなり歩行喫煙を始めるオヤジも、家中のゴミを持ち出して歩くご婦人方も、寝起きの髪型で、あるいはスッピンを晒して歩いている。むずかる子供や、降りるなり路上で排泄を始める犬も、マナーに気を配る気配を見せない。いや、無理もない話ではあるのだ。朝から長時間窮屈な姿勢で座っていたわけだから。でも、やっぱり見ているとジーンとする。私は、まっすぐ帰るべきなのかもしれない。時間を逆行してでも。いや、取り戻さなければいけない。未来をつくること以上に。


あとこども店長は逝ってよし。





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