「正義」の流行と「流行」の正義

「流行」を仕掛けることでしか命脈を保てないのが、資本主義経済システムです。要らないものを必要なものと誤解させることでしか成り立たないのが、資本主義経済です。
ネット時代になり、その「電通博報堂ライン」の戦略も監視の目によって暴き立てられ、その支配も潰えようかという時代となってきている・・・・・・という意見も目にします。しかし、希望的であることは、事態の改善に対してもちろん大きな原動力となるものの、少々、楽観的に過ぎるのではないかな、というのが正直な感想です。

だって、今こんなに「韓国ブーム」じゃないですか。
 (とはいえ、先日の日記に書いたような個人の意見が、マスレベルのメディアに簡単に掲載できるようになったということは、何か大きな変動のきっかけにはなるかもしれません。でも、ほとんどローカルネット的にしか読まれてないんだろうけど。)

そして、この過熱する「流行」という状況が過去、延々と続いてきたことを、明示的にも暗示的にも示す一つの例が、一遍上人の「踊り念仏」だといえるでしょう。人々は、まさに「踊り狂った」のです。
(もちろん注意すべきは、この「絵巻」に「描かれた様子」が真実であるのか否か、という点です。なぜか、という理由としては『古事記』『日本書紀』という二つの「歴史書」があげられるでしょう。これら二つの歴史書が「作られたもの」だという点については、もはや「常識」として踏まえられるまでになりました。「神話」という形をはっきりと採るこれらですら、その「作為性」に目が向けられています。であれば、「絵巻」という明らかに権力者によって作られた『一遍聖絵』が、宗教者の伝記だというだけの理由で、「作られたもの」ではなく真実であるなどと言い切ることは到底、不可能なことです。踏み込んで言えば、そこに描かれた図像は全て「政治的」な戦略によって描かれているということです。つまり、「踊り念仏」にしても、描かれたまでの熱狂を受けたかどうか分からないということです。*また、一遍の非差別性を示すものとして言われる「非人」の図像についても、「わざと」描かれたものだともいえます。そしてちなみに、一遍が彼ら「非人」に積極的に接触したという描写は「ありません」。「目を合わせたような場面すらない」のです。)

確かに、こういった熱狂のさなかで踊り狂うことほど、ストレス発散になるものはありません。すばらしい興奮状態が身を包み、気分も高揚し、まさに「身も心も健康」になったと感じられるでしょう。
しかし、それを注意して見れば、それが、「踊っている」のではなく、「踊らされている」のだということができます。こういった「流行」を一歩見誤ると、その末期はお決まりのように悲惨なものです。たとえば、かつて数百万個を売り上げた「たまごっち」のようなものでも、最後には大量の不良在庫を抱え、それまでの稼ぎを失いかねないような状況に陥りました。
また、「踊らされ」、被害を受けるのは何も国内に限ったことではありません。「たまごっち」以前にも、「ナタ・デ・ココ」ブームが日本を包んだ(仕掛けられた)ことがありました。そして、このデザートは、主にフィリピンから輸入されていました。それを作る工場は、ほとんどフィリピンの工場でした。ブームは一瞬にして過ぎ去りました。あとに残されたのは、ブームの継続と売り上げの恒久的上昇を見込んだ過剰投資によって増設された、もはや何ものをも生み出すことのできない工場の群れ、借金の山でした。
これらの結果で悲惨な目にあったのは、もちろんブームに乗って商品を作った側でした。自ら「踊って」しまったことによって、手痛いしっぺ返しを受けたといえます。
「流行」に「踊った」一般の消費者からすれば、「古い」物に飽き、また別の流行に「踊る」ことを選択しただけのことでした。そこには何の躊躇も反省も無い様に見えました。
しかし、この「流行」に「踊る/踊らされる」ことに、いつまで無自覚でいるというのでしょうか。
「ブームの継続と売り上げの恒久的上昇を見込んだ過剰投資」によって、「流行」から手痛いしっぺ返しを食らっているというのが、今の日本の経済状況なのではなかったのでしょうか。10年も経てば、10年以上も経ってしまえば、「バブル」のことなど忘れてしまえるということなのでしょうか。慣れてしまうということなのでしょうか。
「その時々の「流行」=「正義」に乗っただけ、乗せられただけなのだから、われわれには責任はない、罪はないのだ」とでも、いうのでしょうか。そもそも「「流行」に乗ることが「正義」なのだ」とでもいうのでしょうか。

今、世界は「正義」に満ちています。
「俺が、俺が、俺が、正義だ〜!!(ジョージ・ブッシュ!)」
「ぼ・く・ら・の・正・義は、ただ一つ!(民主主義!)」
そんな無邪気な「子供だまし」の特撮番組の主題歌のような意見が、今、世界を動かしています。(ちなみに前者は「巨獣特捜ジャスピオン」。後者は「爆竜戦隊アバレンジャー」です。)
これに比べれば、まだアルカイダの唱える「正義」など、かわいいものに見えてきます。なぜなら、彼らは今、「正義のヒーロー(ミスター・アメリカ)」から「悪の秘密結社」としてみなされ(「出たな、アルカイダのテロリスト集団!!」)、その「正義」は「理由の如何を問わず」、「悪」だと断定されているからです。

「もしもアメリカが弱ければ、イラクがたちまち攻めてくる。」
イラクフセインがいる限り、いつかはアメリカに攻めてくる。」

こんな幼い、そしてそれこそ「まともな大人」なら、「パロディー」にしかしないようなテーマを、「世界の真実」だとするのが、今の「正義」です。(ちなみに以上は、DAIKON FILM 製作の「愛国戦隊大日本」です。さらにこのパロディー元が「太陽戦隊サンバルカン」です。)

しかも、その「正義」とは、その内容の正当性、「質」によって立っているのではなく、圧倒的な「量」によって形成されたものに過ぎません。他の意見を押しつぶすことで、作られたものでしかありません。だとすれば、「正義」を口にする政治家こそ、「民主主義」にとって「最も有害なもの」である、といえるのではないでしょうか。
政治とは「永遠の妥協」なのかもしれません。「数こそが正義」を甘んじて受け入れろ、そういう声があることも事実です、それが日本を覆ってきたのも事実です。しかし、改良でなくして、改善でなくして、どうやって社会を維持し生き延びていくというのでしょう。まして、「国際社会」という「千差万別の社会」で、それぞれが自立した上で等しく生き延びようとするのであれば、数だけで押し切ることを絶対視して、誰が納得するというのでしょうか。

「人生いろいろ、会社もいろいろ、社員もいろいろ。」
素晴らしい!なんと素晴らしいのでしょう!!日本の首相は!!!

「いろいろ」だから、「いろいろ」だと認めていれば、「どんなことでも絶対的ではない」と「認めさえすれば」、「自分が行ういかなることも正当化される」と信じているのです。
これは、もはや五年以上前に否定されつくした文化人類学的な主張、「文化相対主義」の腐った姿です。いや、それが腐っただけならまだしもです。かの首相は、当然のような顔をして、それを国民の口元に押し付けているのです。無理やり、ねじ込もうとしているのです。いや、ほとんどねじ込まれた後なのかもしれません。
ここまでの恥知らずは、かつて目にしたことがありません。「あの」史上最低と言われた「前首相」が「ただの愚か者」に見えてきます。これほど「狡猾」で「欺瞞的」な人間が、「改革者」として登場したなどということは、今やブラックジョークにしても性質が悪すぎます。

それでも、人々は「踊らされ」続けます。
「踊らされた」側も十分に、十二分に「痛み」を感じ、その「痛み」を無くすという名目でさらなる「痛み」を与えられても、まだ、まだ、まだ、「無常観」が「日本人の本質」だ、などといっていられるのでしょうか。「自然」に逆らわないのが日本人の性質だなどといって、甘んじて受け入れてしまうのでしょうか。嫌なことは全部忘れて、いや、見ない振りをして、また「踊らされる」というのでしょうか。「踊っている」うちは、忘れられるというのでしょうか。
「仕方がない」「そうするしかない」という、それだけの理由で、何一つ次善の策を省みずに「アメリカという母」に隷属するしかないというのでしょうか。「アメリカという大いなる自然」に敬服するのが当然だとでもいうのでしょうか。
人間としての生は、人間として生きようとする気概は、この国には無いのでしょうか?

それが、「日本的精神」なのでしょうか。「日本的精神」という「一つの言葉」でまとめられれば、中身がなんであろうと「正義」、なのでしょうか。

「人生いろいろ」。ええ、確かにそうです。しかし、その「いろいろ」なハズの人々は、いともた易く、「流行」する「正義」、「正義」の「流行」に乗せられ、流されていってしまうのです。

ただ一つの方向へと。