Death of “Death Note”

Death Note』(デスノート)が、最近急速につまらないものに思えてきた。開始当初は、あんなに持ち上げていたのにもかかわらず。
新刊で買い揃えているという時点で、相当以上の高評価を与えていたということになるのだが、もう黄色い悪魔*1に売っぱらってしまおうかという勢いにまでなってきた。
なんでこんななったんだろう、なんでこんななったんだろう。


ヒカルの碁』のある種波乱に満ちた終了後*2鳴り物入りで開始された小畑健・画のマンガ。それが、『Death Note』だった。
推理・推測、予測に挑発、罠に駆け引き。確かに、少し前までは読者を宙吊りにするサスペンスだった――はずのものが、
ここに来てどうも――その印象が――――なにか散漫な――――――
いや、作品としての魅力そのものが――――何かぼやけて失われて来ているように感じる、のだ。

4巻という短いスパンでの物語の展開の中で、この話の根幹であるキラ・Lの正体が、あまりにあっさりお互いに筒抜けになってしまったというところにある、ということは一ついえるかと思う。特に、4巻では、新たに登場した死神の力をもつ少女が、これまたあっさり駆け引きの舞台から退場してしまった。
確かに、この手の推理ミステリー的な作品が20巻、30巻とだらだら続くことは、肝心の物語の核自体を散漫にさせ、本来ワキのはずのキャラクター談議に陥ってしまうだけのことなのだが*3
オチにかかわる部分を、こうまで早々に作品世界で公開してしまうことには、作者・編集者は「早く終わらせたい」のか、とも勘ぐってしまう。
事実、このままだと予想していたよりも短い、最高でもおよそ12、13巻までには連載が終了しそうな雰囲気がある。ま、長くても15巻前後だろうが。


さて、それよりも何よりも、このマンガ、『Death Note』に、特に最近感じるのは、
「マンガ」としての魅力がどこか欠落している、ということだ。


Death Note』が、「最初から最強」型のマンガであることは、『ヒカルの碁*4とも『ワンピース』とも共通しているのだが、
それらと大きく異なる点が一つある。
それは、
主人公が成長していない、いや、主人公に「成長の必要がない」という点である。
まがりなりにも、ヒカルやルフィの場合、成長、発展が、本人の実力の向上や、新しい技のお披露目によって描かれていた。
しかし、『Death Note』の場合はというと、主人公、夜神月(ライト)は、最初から成績優秀・スポーツ万能・イケメン・ハーレム・金持ちで、はっきり言ってこれ以上は望めないという状態で、物語がスタートしている。
全国一の頭脳を持つ高校生〜大学生でないと、「死神のノート」は使いこなせないという設定、主人公は天才的犯罪者、という話はわからなくもないが、
はたしてそれで少年マンガ的、直接的に言えばジャンプ的な「努力・友情・勝利」の三原則がそこに入り込む余地があるのだろうか。
特に、マンガの醍醐味といっていい成長のプロセスの描写――「努力」に関して、パーフェクトな「天才」という設定は重大な欠陥を抱えているように思われる。
「ノート」の使い方の複雑化、高度化によってそれを描写している、ということなのかもしれない。
しかし、はたから見ていてそれが成長に見えるかというとそうではないし、また、発見にも見えないのだ。
事実、新しい使い方を「発見」するシーンは、天才性の強調のためか、劇中で一切描かれず、「いろいろ試していたんだ」「いつの間に…」などというひとことで済まされてしまっている。
これはつまり、
一見、趣は異なるが、
「あ、あれはまさか…」「知っているのか、雷電*5
というのと、要は同じことである。

シリアスな展開をする物語において肝心の、描写されなければならないはずの修行・成長の過程を省略した、いわばギャグマンガの文法が、サスペンスを自称する作品に用いられてしまっているのである。

そして、より根源的な疑念を言ってしまえば、
一言で言うと、「別にこれがマンガである必要はない」ということ、がある。
その印象は日増しに強まってきている。*6
それを、さらにありていに言ってしまえば、『Death Note』は「マンガじゃなくてネームを読まされている」ような気がしてならないのだ。*7
Death Note』の暴力的なネームの量は、『アマテラス』*8に匹敵するか否かというレベルのものである。
そして、ネームの量に圧迫されて、結果的にキャラクターの動きは制約され、コマの中は顔・顔・顔・顔・顔・顔・・・・・・で埋め尽くされてしまっている。
Death Note』のキャラクターは、基本的に座っているか、立っているかしかしていないのだ。
同じようなことは、浦沢直樹の作品にも言えることなのだが、浦沢作品の場合は、ゴールをしっかりと据えた上で、そこに至るプロセスを登場人物の追加によって二重三重に膨らませ、そしてそれらをまた一つに収縮させることができるという手腕を持っている。
だが、はたして『Death Note』に、はっきりとしたゴールが見えているだろうか?
明確なそれがないままに、ほぼ決まったメンバーの中だけでプロセスを描がかれてはいないだろうか。
そして、それがために、潤いのないネームの応酬になってしまっているのではないだろうか。


思春期的な衝動を暴力・バトル・戦闘で解決せず、そこにある「死」への、つまり「殺人」への欲望、あるいは誰しもが持つ社会的な「義憤」を、直接の力の行使なしに、ノートに名前を記すという呪術的、怨念的な行動でもって、「制裁」を加えられる、という設定はうまいなと感じていたのだが、
今抱くのは、「惜しい作品をなくしたな」、という感想だ。

*1:ブクオフのことDEATH。

*2:ジャンプマンガにおいて主人公が勝利しないで終了すること自体も波乱であるし、2ちゃんねるではまことしやかに「あの法則」が囁かれるという騒動もあった。

*3:別に、『名探偵コナン』がどうとか言ってるつもりはないんですけど――

*4:特に、憑依霊型という点でほぼ同じパターンである

*5:魁!男塾』→台湾の前総統がコスプレして問題になったマンガ

*6:もちろん四六時中『Death Note』のことばっか考えてるわけじゃないけど。

*7:ここで言う「ネーム」とは、「セリフ」の事を指す。

*8:ガラスの仮面』の作者、美内すずえが自身で開いた新興宗教の経典的マンガ(半分ウソ・でも半分ホント)。4巻のお告げシーンは特にスゴイ。