【2005年5月】

「監獄」の誕生――「地域」という名のコロッセウム
「「現実肯定」社会の行方」の第二部として書き出した、メディアで希求される「地域」への違和感から生じた都市型市民社会への一視線。
名づけるならば、「コロッセウム」論とでも言おうか。
「健全」と「不健全」、「善」と「悪」、「市民」と「奴隷」の確固たる区分が声高に叫ばれる現状は、返ってそれがいつ転倒するやも知れぬ流動性をはらんでいるからではないのか、という視点。
結局のところ、「地域」復活の合唱から「監獄」は誕生せず、「コロッセウム」のありようを隠しているだけなのではないだろうか。
レベル5鬱に陥る前に書き残していた記事を調子の出ないままに書き上げたところ、意外にもまたまたloveless zeroさんからリンク。


「コロッセウム」は「村八分」か
上のloveless zeroさんのコメントへの返答記事。(文体がまったく違うのはいつものことなのでご愛嬌)
具体的ではあるが明示的ではない「空気」というところからはじめ、指摘にあった「村八分」という概念に沿いつつはなれつつ、「コロッセウム」を形成する根源としての「疎外」する「強制力」のありようを示す。
強いつながりを求めながら弱いものの排除を進めるという、「地域」待望論の泥沼具合こそが、「コロッセウム」の本質なのか。
これまたloveless zeroさん、電網山賊さん、Demilog@はてなさんからリンク。