誤読〜援助が足りないのはどこか〜

朝鮮学校、まだまだ援助が足りない

このブログやこの中のその他の記事への是非はともかく、朝鮮日報に記載されていた記事だからという理由で、その学校を「朝鮮学校」であると決め付けたこのエントリに関しては、ひとこと言っておいたほうがいいような気がした。
なぜならそれが明らかな文脈の読み違い――端的に誤読であるからだ。


そもそもこのエントリでは以下に見られるような決め付けた結論に基づいたコメントが示されるのみで、それを判断した過程が示されていない。

朝鮮学校」という記述はまったく無いが、朝鮮新報の記事なのでほぼ朝鮮学校で間違いないと思う。それを前提に話を進める。

だが、申し訳ないがこの判断は「間違い」だ。


引用された記事の冒頭の文章をよく見てみよう。

思えば1年前、本当にひょんなことから、偶然に、外国籍の子供たちが通う外国人学校で授業を頼まれ、ワンショットで教えに行くようになった。最初は言葉の壁もあり、子供たちとは言うものの、学制の違いもあり未就学児から日本で言う中学生くらいまでの子供たちまでが一堂に会する、日本とは授業の内容も、進度も、教育に対する教え方も違う、外国人学校で、はたして、本当に教えられるかどうか、不安と焦燥に駆られたものだった。

外国籍の子供たちが通う外国人学校」という点からは、外国人学校であるという点しかわからない。その国籍を判断する材料がこの文脈には含まれていない。
最初は言葉の壁もあり」という点からは、子供たちが日常的に日本語以外の言語を使用して生活していることが伺える。確かに朝鮮学校の授業では、朝鮮語を使うことが義務付けられていると聞くが、そもそも日本で生まれ育った生徒たちが通う学校なのだから、それに対して「言葉の壁」という表現がされるには違和感がある。また、これは推測に過ぎないが、民族教育(思想教育)に熱心な朝鮮学校が、わざわざ語学に不足のある教員を採用するとも思えない。
さらに「学制の違いもあり」という点は、明らかに日本の教育制度から離れた異なった教育制度に基づいていることを示す。朝鮮学校の場合は、そこでの思想教育がいくら異質なものと思えても、日本の6・3・3・4制に沿った形での学校制度が整備されている。どの時点においても年齢的な差異のない状態で、日本の学制へスムーズに移行することができるのが朝鮮学校だ。もちろん、一概に「スムーズ」だとはいえない現実はあるのだが、少なくとも年齢設定で見た場合、朝鮮学校と日本の学制のそれはパラレルな関係にある。
決定的なのが、「未就学児から日本で言う中学生くらいまでの子供たちまでが一堂に会する」という点だ。幼稚園、保育園が朝鮮学校に付設されていたとしても、それが一堂に会する=同じ教室にいるとは考えにくい。日本の公教育とパラレルな関係にある学制を採っている限り、それはありえないことだろう。


また、次の部分が日本の税金に不要に依存しようとている=だから朝鮮学校だという論拠になっているようなのだが、それもどうだろうか。

父兄から授業料は徴収しているものの、なかなかそれだけで学校は成り立つものではない。月謝一つ取ってみても、日本の私学の高校並みか、場合によっては、それ以上になることもある。教科書も、空輸で言わば直輸入。学制の違いもあり、また、たとえば、数学などの教科書を見ても、日本よりもレベルが高く、内容も盛りだくさんとあって、各学年、各教科をひとそろえともなると、軽く数万はざらである。これは、日本では考えられないような、非常に由々しきことである。子供の為とは言え、保護者負担は大きいと言わざるをえない。

朝鮮学校ではないとなれば、その外国人学校に通う生徒の父兄は、基本的に日本に生活の基盤を持たないことになる。その立場もさまざま、日系であることを頼りにした出稼ぎであったり、数少ないエリートだったりするかもしれない。世界一とも言われる日本の高い物価の中で生活し、さらに授業料を支払うとなると、母国と比べた経済的負担の差は明らかだろう。
また、戦後60年にわたって日本に住み続けている在日韓国・朝鮮人社会であれば、出版社や印刷所の一つや二つ少なからずあるだろうし、「教科書も、空輸で言わば直輸入」などということにはならないと思われる。
また、「どの教科書を見ても、日本よりもレベルが高く、内容も盛りだくさん」という点も、一見「ウリナラマンセー」的に読めなくも無いが、それはうがちすぎというものだろう。繰り返しになるが、日本の学制とパラレルであることを志向する朝鮮学校が、それほど一概にレベルが高いとは言い切れないのではないか。差があるとすれば、それはもちろん、日本の学校の中にもしかとある学校格差という程度なのではないのか。
これは、日本では考えられないような、非常に由々しきことである」との言葉も、日本人が日本の学校に通う場合に比べれば、確かに考えられないことである。しかし、社会基盤の弱い外国人社会の抱える真実の構造的問題でもあろう。


そして、もしこの問題に対する真に愛国的な態度とは何かを考えれば――日本という国の威信を高めるために最も効果的な策とは何かを考えれば、それはやはり、わざわざ日本に働きにやってきた外国人の子弟が安心して教育を受けられるために支える、そのことがひいては彼らの日本への愛着を育て、よき隣人として暮らすことにもつながるのではないのか。


しかし、逆説的に言えば、もしこの記事が読売か産経に載っていれば、こんな形でブログに取り上げられることも無かったのではないか、とも思われる。そこが、今の日本という社会の弱さ――情けなさなのかもしれない。




最初から日本に生まれ日本に育った在日韓国・朝鮮人子弟のための学校に、――60年という永きに渡って強固な社会基盤を築き上げた彼らに対して、「神話」に基づいた合理性の無い利権や癒着、腐敗を容認するつもりはさらさらない。
が、ことコレに関しては文脈を明らかに、ともすれば恣意的に(?)読み違えた、誤読であることは間違いないだろう。