非モテはしばらくそれでいい?〜恋愛が滅ぼす社会〜

ここ一、二週間ほど、ブログ界の一部で沸騰した非モテ論議は、その中核たる場所でのこんな宣言によってひとまず幕を引いたようである。

非モテへ寄せられたコメント
身の丈にあった恋愛がしたい.
その願望すらも「すべてを受け入れるような身勝手な女性像」でしかないとしか思えない人間とは,もう話すことはない.
自分と付き合ってくれる女,そんな女がいれば僕にとってはそれが天女だ.
あとは自分自身をいかに精進するか.そんなの,自分の信じた方法でやるしかないじゃないか.
そういう思いを強くしました.

高みに立った「普通に恋愛する人間」からの(糾弾に等しい)「アドバイス」などにはもはや耳を貸さず、自分でわかる範囲でやっていこうというもの。
それに対してコメント欄では、口々に「自分のペース」でいいんじゃないですか?というやさしい言葉がかけられる。


事実それしか他に道は無く、最初からそうするしかなかったのだろう。


さて、そうすると、これはいったいどういうことになるのか。
つまり、
「非婚・晩婚化」「少子化」のさらなる継続と拡大が約束された、ということである。


このことを直感的に感じとった老人が、自らの生活の保守と「美しい日本」が継承される様を確認したいという欲求をかなえるために、世の若年男性に対して、「今の若者には元気が無い」だの「今の男には覇気が無い」などといった、まったく中身に誠実感のない精神論を浴びせかけているのである。


だが、その精神論が結局のところ、老人の自己満足、あるいは自らの生活の保守のためという、きわめて個人的かつ利己的な衝動にしか源泉を持たないことを、これまた若者のほうも直感的に察してしまうがために、ますますシラケ感を強めてしまうのである。
――素晴らしいまでの悪循環である。


そして、この非モテ問題を解決する唯一の方法がまた、「自分のペース」という「時間の経過」を十分にはらんでいる――「非婚・晩婚化」「少子化」において「悪」と目される「時間の経過」を十二分にはらんでいるという事実が、
「問題」に含まれる「原因」とその「解決策」がまったく同じであるという、事実がここにある。
――素晴らしいまでの悪循環である。


だが、それしか他に道は無く、最初からそうするしかなかったのだ。




しょうしかばんざい、しょうしかばんざい、れんあいのしんぽとちょうわ。
そして、じぶんのペースでのれんあいがじょうじゅするだろう。




つまり、
少子化」の根源的な原因とは、「恋愛」そのものであったということだ。
近代というシステムに仕組まれていた大いなる自壊装置――それが、恋愛であったということだ。
だとするなら、非モテはいったい何に憤りを感じることがあろうか。
恋愛を社会装置として信奉するものたちは、結局のところ自らその首を絞めているのだ。
われわれが手を下すことなく、この社会は自ら潰えているのだ。
――静かに、サイレントに。