「モヒカン族」って

なんというか、アカデミズム的な方法論を体得する過程であるように思える。
ように。


言語原理主義、論理原始主義であるのだし、言葉だけで論理だけで相手を説き伏せにかかるというのは、アカデミズム的な作法以外の何者でもない。


またそれは、近代自我的な作法でもある。


近世的曖昧さ、中世的呪術思考を排して、合理的な、論理的な思考法でもってすべてを裁断していく。


・・・しかしそれは、アカデミズム的作法を体得したものからすれば、あまりにも当然で当たり前に過ぎる物であり、イマサラとかく騒ぎ立てるほどのものかと、ややもすれば白い目を向けらがちである。


とすると、モヒカンを自称するものは、先にも言ったが、アカデミズム的な体系を学んでいないもの、アカデミズム的な作法を学習中のもの、アカデミズムというものを肌で感じなかったものが、改めてその力に魅入られているといったところだろうか。


しかしこうも言える。
残酷な言語が支配するこのネットの荒野にその身をさらすことでもって、アカデミズムの真髄が手に入れられるというなら、わざわざアカデミズムの殿堂にまします元老院の御方々を食わすために大枚を費やさずとも、いいのではないか、と。


また、ネットの荒野が、アカデミズム*1の性格を持つにいたったのだとすれば、それはまさに不特定多数の「大衆」規模の現象として、人々の意識に大きな変化が訪れ始めたということなのでもあるまいか。


願わくばその意識の変化が、行動の変化につながることを、祈るばかりだ。


参考:モヒカン宣言

*1:的思考法を促す作用をもつ