「恋愛」というナルシズム

「「萌え」とはナルシズム的な自己愛である」?


ちがうね。


「恋愛」における恋人こそ、欠けた自我をナルシスティックに補完するためのツールに過ぎない。


こんなにもダメな恋人を支えている「自分」
こんなにもガンバる「自分」を支えてくれる恋人


などという、どこにでもありそうな、そこかしこにあふれていそうな、こんな恋人達の風景の、いったいドコがナルシズム的ではないというのか。
一体どこが、ナルシスティックではないというのか。


だめんず」という概念が大手を振って認知されているという状況がそれを裏付けている。ダメな相手がいてこその「自分」。自分もダメだけど、さらにダメな相手に関わることで、相対的に格上げされる「自己評価」。


これは没我的な「萌え」よりも、はるかに功利的な自己愛の姿だ。


美しい言い訳の下で相手を踏み台にしながら、さらに自らを悲劇的に演出することで、自らへの評価に対する強固な壁を形作る。
二重三重に入念に張り巡らされたナルシズムの城に引きこもっているのはいったいどちらなのか?


「萌え」にせよ「恋愛」にせよ、
すべては自らのための快楽が原動となっているのではないのか?
なぜ一方だけが、常に批判の対象になるのか。
――なぜ?
「萌え」という自己愛を求めることの、自らが自らの快楽を求めることの、一体どこが悪いというのか。*1



恋愛弱者は、「普通の恋人達」がなぐさみに愛玩するための「珍獣」として、大人しく檻に入っていろということなのか。

*1:もちろんこれは、リンク先が「それほど」萌えに対して「否定的」ではないことは知っての芸風上の文体であることを申し添えるが