「エリート」という異界の存在〜「愚民」論を超えて〜

どうしても陥りがちなこの罠をいかにすれば回避できるのかと考えた。
「この国が持たんときが来ているのだ!なぜ分からん!!」というのは簡単だが、ぼこすか隕石を降らしたところで、肝心の敵はいつも逃げ切り、内紛で自滅するまで生き延びる。


そして、その間にばたばたと死んでいくのは、その周りにいる大勢の……「大衆」。
――誰がそのうちに入っていないともいえないのが、この「大衆」だ。


その「大衆」たるが有権者が、自らが考えた以上の結果を出してしまったことは、ひとつには、小選挙区制という罠のなしえた業であるといえよう。
――まれに見る政策選挙であったにもかかわらず、その政策のうち生かされたのはたった一つ、という、あまりにも効率の悪いこの選挙制度が、まずは「愚民」に代わって責めを負うべきだろう。


……とすると、もちろん「この選挙制度を決めたのは誰か」という疑問が発生し、その責任は自民党及び公明党にあることとなり、そして、その制定以前にその二党に政権を譲り渡した有権者の責任というものが出てくる。
――回りまわって所詮、「愚民」なのか……とは言わない言わないお約束。



キーワードは、「まじめ」「おべんきょう」「お上」

(ぶっちゃけまたしても途中の書きかけですよ。)
先取りして言いうと、「エリ−ト」って言葉で好意的に支持されるのは、自分から遠いところにいる「お上」的な存在に対してのみであって、身近な場所にいる秀才には嫌悪感しか示されないってこと。


その嫌悪感の発露が、「まじめ」排斥であり、かつまた、「おべんきょう」否定主義であるということ。自分の身近には馬鹿しか置かないようにして、賢いお偉方は遠いところに鎮座まします用に配置するのが、日本人的世間世界観ということ。


いうなれば、「異界の存在」としてのみ「エリート」は崇められ、「写し世」の存在としては、徹底した否定にさらされるということ。
老人が口にする「学校」という言葉の、なんと否定的な響きを持つことか――。
世間の内に於いて、秀でた才はまったく必要とされない。
求められるのは、従順で健康な奴隷だけだ。