「ルサンチマン」の前に立ちはだかる「コミュニケーション信仰」の壁〜テロリスト宣言〜

「お前達を同化する。抵抗は無意味だ。」*1


非モテ」に対して、圧倒的な質量差・物量差でもって王蟲の大群のごとく怒涛のように押しつぶそうとするその様は、モテ・ボーグであるところの「おれはおまえのパパじゃない」さんの姿勢にもっとも顕著だといえる。


「お前達を同化する。抵抗は無意味だ。」


「コミュニケーション能力者」を自認する彼らのその行為に、コミュニケーションへの可能性はほとんど含まれていない。


そこには自らの価値観のみを「不朽の正義」と任じ、それに組しない異教の者ドモを「人として扱う必要のないケダモノ的なテロリスト」として見下し、踏みつけ、自らの力の確認のために生かさず殺さずの状態に追いやる姿勢が――どこかで見聞きしたような姿勢が――臆面もなく晒されている。


そう、そもそも彼らの言う「コミュニケーション」とは、ある意識を共有することを前提とした「制限された土俵上の同調確認行為」でしかない。
いうなればこれは、若者版の「みんなと同じ主義」=同調主義だ。
「モテ」というマジョリティが老人から受け継いだ、この国の悪しきものの根源だ。


「みんなと同じこと」を言っていなければ即、忌むべき汚らわしい存在として排斥される。
そして、それが「普通」だの「自然」だの「常識」だのという言葉で、さも恣意性を排した地点に依って立つ中立的な基準であるかのように装われる。
そして、それに対して異議を唱えることそのものが、根底から否定されつくしていく。
そして、その抑圧の構造下において、多数派が無知・無自覚に少数派に対してかける圧力によって、どうしようもなくこじらされていく劣等感は――「ルサンチマン」の名で嘲笑の対象となるのだ。*2




だが、次のような残酷なアドバイスは、後を絶たない。

彼らは強い劣等感を持つが故に、ネットのように安全な場では色々表明するものの、DQNや女性にリヤル*3で面と向かってそれを言う事は出来ない。知的議論に長けた者が、blog上などで様々な概念・文献を引用して劣等感・自己不全感を見事に昇華・知性化させる事こそ見受けられるが、彼らが劣等感の源に対してリアルでアプローチしているという話やレポートはあまりみられず、結局は現場との交流を踏まえない高踏的議論に陥ってしまっている例も多い。
http://www.nextftp.com/140014daiquiri/html_side/hpfiles/otaken/moe_comp01.htm


「戦わなきゃ現実と!」……?


――お前はなにを言っているんだ。


ルサンチマンを抱えたものが、一人でそのルサンチマンの源泉とリアルに交渉することが、一体どのような結果を生むことになるのか。
その少なくともひとつの、いやいくつもの、いくつものその「実例」を、この国に生きるものは――知っているはずだ。
――見聞きしたはず、だ。


「彼ら」はオタクでもあったし、オタクでないものもあった。
だが、同様に「カースト*4の抑圧構造に屈し続け、屈することを強いられると感じ、そこ(階層)に順応することもできず、にもかかわらず、真剣に自分で考える事を続けていたがために、主流派からは、さらなる疎外を受け、「異端」としてナアナアで流されて、「なかったこと」にされかけていた者たちだった。


そう、自らの存在を抹消された者たちが、現実に現実の現実と交渉しようとしたときに一体なにが起こったというのか。
――本当に「知らない」と言うのか。


あえて言おう。
彼らは人を殺したのではない。自らの身に凶器を突き立てたのだ。
そして、その身を貫いた切っ先が、その身体を付きぬけ、他人の身体に届いてしまったのだ――。




多くの「ルサンチマン」を抱えた、それでいて倫理的な者たちは、もちろんそれが社会的な「悪」であることを、知っている。
すなわち、「現実との交渉」が、いかに危険なものであるかを、暗黙のうちに了解している。


にもかかわらず、それにもかかわらず、無知・無自覚な強者は、その独善的な信仰を「無限の自由」として謳歌することを、その「沈黙」に乗じて、さらにもまして強いるのだ。


再び視点を「非モテ」に戻せば、
「モテ」の側から見た「非モテ」については、「恋愛」の教義が書かれた聖書=メディアの上に片手を置かないその姿を指して、侮蔑的に「避モテ」であると呼称するようにもなってきている。

おれはおまえのパパじゃない - 避モテ
■[思考] ルサンチマン故ですかそうですかorz

ここにもやはり、唯一絶対の信仰を共有しない者への不寛容がありありと示されている。
――そう、「彼ら」にとって異教徒は人間ではないのだ。




だが、


はたして「敵」は、自らの外にだけいるのだろうか。
この「構造」の下で、そんなことがありえるだろうか。

2番目の「いわん」さんの言うことをまとめると「恋愛至上主義の醜さに対して呪詛を吐き続ける非モテが実は一番の恋愛至上主義信奉者」ということになるかしらん。
http://d.hatena.ne.jp/sumeshi/20050916#1126904809


これは、つまり、
「高校野球の精神に反する行為だ」と、各種の暴力事件や隠ぺい工作を批判するその行為そのものが、「美しい高校野球」というイデオロギーを構築しているのだとする指摘と、全き関係にある。


ここにもまた、「現実との交渉」に含まれた容易ならざる罠が示されている。
――「現実との交渉」への不可能性が開かれている、と言ってもいい。


やはり、主体的に、具体的に、現実的にという、指針は、地雷原に向かっての行進を促すような行為でしかないのだろうか。


ならばやはり、相対化というツールを使っての、「様々な概念・文献を引用して劣等感・自己不全感を見事に昇華・知性化させる」ことを通じての、そして、それをメディア化していくことを通じての、「社会との格闘」という道こそが、もっとも「現実的」なのではないだろうか。


スタンドで派手に撃ち合うことだけが格闘ではない。
グラウンドで、ひたすらグラウンドで関節を狙うのもまた、立派な格闘である。


それを正義に歯向かうテロリズムと呼ぶのなら、そう呼べばいい。





テロル機械 (エートル叢書)
ローラン ディスポ
現代思潮新社
売り上げランキング: 995490



テロリズム―歴史・類型・対策法 (文庫クセジュ)
J.=F. ゲイロー D. セナ
白水社
売り上げランキング: 210303
おすすめ度の平均: 4.5
4 フランスのテロリズム研究書
5 本格的な入門書


*1:スタートレック」シリーズ最大の敵種族、「ボーグ」の台詞

*2:何度でも言おう、「ルサンチマン」を哂うな!!!

*3:ママ

*4:この世にあるのは、スクールカーストだけではない。もちろんのことだ。