モテツールとしてのオタク ⑦

自らがオタクであるというアイデンティティと、自らが「非モテ」であるというアイデンティティは、決してイコールではない。
たとえ重なる部分があったとしても、それはすべてではない。


その混同が、この苦悩のそもそもの根源であると言ってもいい。


だが、誤用も繰り返されれば「正しさ」を獲得するように、そう、誤った知識であっても意思の疎通が可能であるように、この社会の現実には「ありえない事実」が、あまた存在する。


そのようにして、「オタクという非モテ」というまなざしもまた、「事実」として成立している。
それが正確には「非モテツールとしてのオタク」であるということは、「ありえない事実」=現実により圧倒され、見えなくなり、意識されなくなっている。


そして、その抑圧が、容易に言語化することのできない苦悩をバラ撒くのだ。
――「非モテ」という苦悩を。




さあ、これで最後にしよう。


非モテツールとしてのオタク」とは、一体何か?


例えば、それは「オタクなどというものに興じる今の自分は、「本当の自分」じゃない」といったようなものである。
あるいは、それは「「モテ」さえ手に入れば、その姿こそが「本当の自分」なのだ」といったようなものである。


それらはつまり、「オタクとしての自らの姿を限りなく外部化したもの」であると言える。
より端的に言えば、「非モテツールとしてのオタク」とは、「自らの個性を外部化した存在」であると言える。


そう、キーワードは「外部化」である。
一番はじめに言っていた「結論を先取りする」ものとして提示していたものが、何であったかを思い出してもらいたい。

その「ツール」の本質には、「使用者に対して自立するもの」=「使用者の外部にあるもの」という要素が不可欠のものとして付随している。


「モテツール」であろうと、「非モテツール」であろうと、それらが常に外部化されていると言う点に、注目してもらいたい。


それこそが、この問題の「核」なのである。


つまり、「ツール」化とは、「個性の外部化」「自己の内面の疎外」「自己疎外」であると言うことである。
――ここではあえてそれを、「セクシャリティアイデンティティ化」と呼ぼう。


あえて、というのは、「自己疎外」と言う語だけでも事足りるかと思われるところに、自らがその語に不案内なために、他の言い方を試みると言うものである。


そのためにはまず、ここにいう「セクシャリティ」と「アイデンティティ」の定義を示さなければならない。


とはいっても、それほど複雑な語義を込めようというのではない。
その二つの似て非なるものに、温度差をつけて見せるといった程度のものだ。


まずは、「アイデンティティ」である。


よく「自己同一性」などと説明され、高校生くらいになると、学校の教師からもそれを常に意識するよう言われて、辟易するような言葉でもあるが、これはそもそもが、不確実な用語であることを知っておくといいだろう。
この「アイデンティティ」という言葉は、心理学者、エリク・エリクソンが作った用語であるが、肝心のエリクソンですらも「一言では説明できない」といっているようなシロモノなのである。
だから、「先生」ごときから、やかましく言われたくらいで深く思い悩む必要などないのだ。おせっかいとしてそれだけは言っておこう。


が、さて、肝心なのは、ここにいう「アイデンティティ」の意味である。


まず、「アイデンティティ」の大前提となるのは、それが「絶えず変化するもの」だということである。そして、その変化には、日々時々刻々と目に触れ手に触れる様々なものが、意図するとせざるとにかかわらず関わっている。あるいは意図的にそれを「個性」として選択し、またあるいは気づかぬうちにそれが自らの「個性」となる。
だが、その一見して固定的に獲得したかに見える「個性」――世間一般に言うアイデンティティは、「絶え間ない変化」――すなわち経験により、陰に陽に次々に、批判検討、取捨選択され、簡単に更新され、そして――、簡単に失われていく。
その「変化するプロセス」「移ろうプロセス」そのものが、ここにいう「アイデンティティ」である。


では、もう一方の「セクシャリティ」の定義は、どのようなものになるのか。


その大前提となるのが、先に示した「アイデンティティ」の不確かさであることは、察していただけるだろう。そして、それに対するものとして提示していることで、この中身もいわずと知れるのではないだろうか。
一言で言うと、ここにいう「セクシャリティ」とは、「アイデンティティ」をより内面化、身体化したもの、自らの精神に固着化したものを指す。変化するプロセスである「アイデンティティ」を経て形成された、それよりも安定した行動指針ともなりうるものが「セクシャリティ」である、とする。


もちろん、一般に言うところのセクシャリティ――性にまつわる自己認識が、さまざまの「ゆらぎ*1」を持つ概念であることは承知している。だが、それが主張される際の強度は、アイデンティティの比ではない。その強度とは、身体と不可分のものであるがゆえの強度である。


ならば、それを変化せしめること、脱すること、捨てることが、容易にはできないまでに至った、変化するプロセス――経験は、もはや「アイデンティティ」というよりも、「セクシャリティ」といったほうが適切なのではないかと思うのだ。


個々のオタクが持つ様々のセクシャリティを別々に思案するのではなく、その身に固着したその振る舞い全体を「セクシャリティ」としてみなすことが、必要なのではないか。


――そう、オタクというのは「セクシャリティ」の一種なのである。

(続く)

*1:あるいは、幅