「お前にはコミュニケーション能力がない!!!」〜「暴力」について〜

気になることというのは、

見知らぬ相手からいきなり暴力的な言葉を投げかけられても、普通の人は対話をしようという気を起こさない

というテーゼに含まれる、その「暴力」性の問題なのだが、
個人的な経験からして、どうもこの国の「世間」においては、「対話」そのものが「暴力」であるとして排されているような気がしてならないのだ。


「インテリ」とか「共産党」とかいう言葉を否定的に使いがちな人間の姿勢を見聞きし、その本質を見据えてみるに、
どうにも論理的な言葉遣いそのものがこの国では否定にさらされて当然であるとするような態度が、「肯定」されているのである。


これをもっと俯瞰してみるならば、「バカな女はカワイイ」というジェスチャーにもたどり着く。
――例の「ワタシ、ムツカシイこと分からないんでぇ」というヤツだ。


そして、このような人間こそがこの国において多数派を占め、そして「コミュニケーション能力」の持ち主だとして、美しく称えられていることはいうまでもないだろう。


ここまでくると分かるように、この国にいるほとんどの人間は、そもそも見知った相手であっても対話をしようという気がないのである。


つまりそれは、相手が異なる意見を持っていることを前提として会話を組み合わせていくといったような対話が、この国ではそも成立しないことがほとんどだということである。


「攻撃的な言葉遣い」をしたことが問題なのではなく、自分と違う意見を持っている人間の存在に気づいたことが、かのブログが閉鎖した最大の要因なのである。
――そして、閉鎖したということは、つまり「なかったこと」にしたのである。自分と意見を異にする人間の存在を「なかったこと」にしたのである。もはや、かのブログの書き手にとってわれわれは存在しないのである。


いざ、対話的な話をしたとたん、論理的な言葉遣いをしたとたん、間違いを指摘したとたん、「攻撃的」な人格であるとみなされ、否定的・差別的な処遇を受けるというのは、もはや狂気の世界であるとしか思えないのだが、「向こう側」からすれば、当然(!)、こちらのような人間のほうが「キチガイ」なのである。


「対話」をする者は、「日本的」ではない「非国民」なのである。


そしてこの傾向は、もちろんいわゆる低学歴な人々の間ではより強くなるのだが、問題はたとえ大卒であろうと院卒であろうと、この傾向を残したままの人間があまたいるということである。


そしてそれこそが、この国における悪しき「反学歴差別」意識――「実力主義」的言説を生むことにもなっている。


「50歩も100歩も同じである」「同じ人間だから同じ能力があるはずだ」「後はヤル気の問題」「個人の資質の問題」「精神力の問題」「気持ちの問題」「努力の問題」…………


思考の枠組みを「育てられなかった」*1人間が、実例として存在することが、それらの妄言を「証明」するものとして利用され、それがために、能天気な「反学歴差別」意識――「実力主義」的言説が後を絶たないのである。


そこでは「違い」を証明するものこそが「悪」として配置される。


「違っている」ことは「悪」なのである。


ゆえに、「違っている」ことを明示する学歴などは「なかったこと」にされ、「みんながおなじ」だとされる「実力」という「平等なスタートライン」に、「あたたかな」「人間味のある」「配慮」を以って配置されるのである。


そして、そこで結果が出ない人間に対しては、「みんながおなじ」であるにも関わらず結果が出せない人間に対しては、その「ヤル気」「気持ち」「ガンバリ」「精神」に、すべての元凶があるのだと吊るし上げられるのだ。


「これほどまでにこちらが「配慮」をしてやっているのになぜお前はこちらの「好意」に応えようとしないのか!!」と。*2


そして、その「あたたかな」「人間味のある」「配慮」に意見を述べようものなら、満を持してこの言葉が振り下ろされるのである。










     「お前にはコミュニケーション能力がない!!!」










そしてこの態度は、先に私が作った「コミュニケーション能力」というキーワードを改悪したid:pesc3048に最もよく現れている。


私が作った文章はこうである。

あらゆる問題を解決することができ、誰にでも獲得可能であるとされる究極の能力。
その詳細はに包まれている。


そして、id:pesc3048が改悪した後がこれである。

あらゆる問題を解決することができ、誰にでも獲得可能であるとされる究極の能力。
その詳細は一部の人間にとっては謎に包まれている。
→コミュニケーションスキル


そもそも、プライベートモードという「相手のいない空間」に閉じこもった人間がキーワードを編集するということ自体が気に入らないのだが、それをさておくとしても、


この「一部の人間にとっては」という言葉に込められた、悪意・差別感・侮蔑感は、とうてい我慢のならないシロモノである。


「一部の人間」だけがそれが何であるかを知らないというからには、自分は「一部の人間」ではないということか!
自らが「一部の人間」ではないことを誇り、他を見下して当然としているわけか!!
では、それを知らないこの愚か者に、このキチガイにそれが何であるかを説明してみせろというのだ、この表にでる度胸のかけらもない蛆虫が!!!

*1:自律的にも他律的にも

*2:これはまさに、「いじめの構造」とその精神を同じくするものだ。