ユリイカ化する学術誌〜「企業的な社会、セラピー的な社会」って以下ry〜

はてなブックマーク - 福耳コラム - 彼はポルポトになるのだろうか
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思想家系の人間の話かと思って構えて読んで損した。なんだ、あの渋谷系オザケンの小説の文芸批評かこれは。

とかなんとかコメントしたら、

umetenさん、これは小説「うさぎ!」ではなく、学術団体が出した学術雑誌に掲載された「企業的な社会、セラピー的な社会」という論述について述べたものです。念のため。

こんなこといわれて驚愕した。


なるほど確かにそうらしい。

『社会臨床雑誌』14巻3号
http://www1.atpages.jp/sharin/pub_zassi/14-3.html

企業的な社会、セラピー的な社会(小沢健二)(2)

はじめに
日本社会臨床学会編集委員会
いま、2006年度最後の号、14巻3号をお届けする。
佐々木賢さんは、14巻1号で「教育の私企業化」を論じたが、これを受けて、2006年秋には、「グローバリズムと教育私企業化」のテーマで、合宿学習会を企画した。発題は、佐々木さんだったが、討論もじっくりできた。本誌では、その報告をしている。ここでは不十分にしか論じられなかった「グローバリズムのなかで進行する、それを支える心性操作」については、やはり佐々木さんが、15回総会の「記念講演」という形で問題提起することになっている。当日のシンポジウムII「教育とグローバリズム」は、これら一連の提起と討論の中で設定されている。本誌の報告も、総会での討論への助走的役割を果たせればと願っている。
上記テーマと深く関わることになったが、小沢健二さんの「企業的な社会、セラピー的な社会」および原田牧雄さんの「グローバル経済とは何か? 〜デビッド・コーテン『グローバル経済という怪物』を下敷きに」という労作を掲載することができた。
小沢さんは、アメリカ合衆国で暮らしながら、南米ほかの各地を訪ねて、体験と思索を重ねておられるが、今回は、「企業的な社会」では、気づかれないで人々の心をたくみに操る「セラピー的な社会」になっていることを物語風に活写している。原田さんは、D.コーテンを闘読しながら、グローバル経済の進行するアメリカ社会を紹介し、そこに、現代日本の姿そのものを反省的に見つめようとしている。
佐々木さん、小沢さん、原田さん、三人ともが、「グローバル経済」というマクロな課題・問題に接近しながら、同時に、そこで作られる私たちの「心性」の虚実を見詰め、そこから解放されていく道筋を探っている。

だが、ちょっと待ってほしい。
「企業的な社会、セラピー的な社会」だかなんだかしらないが、
学術誌に載ろうが、社会学的用語を使用していようが、思いつくだけでも、「メディア論」、「消費社会の神話と構造」、「心理学化する社会」、「新霊性運動」……などなどと、それに類似するそして先行するもちろん深度のある議論が既に百出しているテーマじゃないのかそれは。

「メディア論」+「消費社会の神話と構造」+「心理学化する社会」+「新霊性運動」÷渋谷系=「企業的な社会、セラピー的な社会」

ですか?


そもそも、オザケンみたいな人間は批評を口にするにはありとあらゆる意味で「幸せすぎる」んじゃないのか?
生まれも育ちも学歴も、「クリエイティブ」な成功にしても、とてもじゃないが悩みを「吐ける」ような「環境」を持ってきたとはいいがたい。
真剣に悩んでるんだっつったって、せいぜい、「軽く明るいラブ・アンド・ポップ」から脱皮したい、でもできないという程度の悩みだろうが、としか思えない。
つまりそれって、ハッパラリラリの窪塚洋介と何ら変わるところがないように思えるんですが何か?
むしろ、ハッパ吸っちゃってるクボヅカのほうが以下ry


あるいは、大学の独立行政法人化が波及した学会雑誌の「ユリイカ化」とでもいうのか。
雑誌のアタマにポップなクリエイターの文章をもってくるってのは、そういう収益性と話題性と客寄せ重視の三種混合ワクチンのつもりなのか。
しかも、「アメリカ合衆国で暮らしながら、南米ほかの各地を訪ねて、体験と思索を重ねて」いるなんてな70年代にタイムスリップしたようなセンスを、いまだにありがたく奉ってしまっているように見えるあたり、この学会誌自体が「セラピー化」してるんじゃないのかとさえ思える。
しっかしまあ、こんなのまであるんだからまあ、ほんっと「ユリイカ」だわ。

〈映画や本で考える〉欄では、林延哉さんが、近年放映されたアニメ『地獄少女』を鑑賞しながら、「自己決定」ということを思索している。

RED GARDEN』か『S.A.C.+2ndGIG+SSS』で書き下ろして投稿したら掲載されそうで怖い。


オザケンオザケンでそんなに社会に訴えたけりゃ、日本に戻ってギターを持って国政選挙に打って出て、並み居る人を引き連れて、山の裂け目の向こう側にでも消えてしまえばいいのだよ。
そうなりゃそんときゃしっかりと、おしとめくらの「沈黙」でもって、行く末を見させてもらいますよ。




あ〜これ試しに、善良な市民に投げ与えてみたら喜んで飛びつきそうだわ。




でも、この学術誌でホント重要なのはこういうポイントですよ。

渡部千代美さんは、「特別支援教育」が進む学校から、子どもたちが細かく分けられていく様子を報告しつつ、「特別支援教育」でよいのかと問うている。なお、「特別支援教育」の現実と問題については、皇學館大学三重県名張市)で開催された第11回総会のシンポジウムI「『支援』ばやり、これで大丈夫か」(11巻2号)以降、本誌でも、教育基本法「改正」、発達障害者支援法などを議論しながら、それらと関連して、折々に考えてきた。
山岸竜治さん、篠原睦治さん、中島浩籌さんの「不登校」をめぐる討論は、山岸さんの「不登校理解=原因論の変節に関する一考察〜小泉英二に照準して」(13巻3号)に触発されて行われたが、「学校」とは何か、という、古くて新しい議論になっている。
〈ここの場所から〉欄で、崎原秀樹さんは、北島行徳の書いた小説『バケツ」などをテキストに、「障害児臨床心理学」の授業をしたことを振り返っている。浪川新子さんは、ある無認可保育所での子どもたちの様子を描きながら、「無認可」のゆくえを考えている。


そうだよ、そもそも臨床=現場を看板に掲げる学術誌で、なんでマクロ視点な「ナントカ社会」だのという文章が持ち上げられるのか。
なにもかも「ユリイカ」が悪いのか!