4、韓国に対するメディアのおもねり=自粛

これに対して、想定できるメディア側の意見としては、「日韓友好のために沈黙する」という答えが考えられるかもしれません。
これは、「お互い」が「いいところ」を積極的に知ることによって、文化レベルでの交流を進めることによって、健全な関係を作り上げることが出来る、ということでしょうか。しかし、この「お互いに」という点が、果たしてどの程度、実際的に「お互い」になっているのかがわかりません。もちろん、「粗探し」だけをするような関係がいいものとも思えませんが。
あるいは、「無用のトラブルを避けるため」という答えもあるかもしれません。この場合は、先に答えに比べられないほど重大な問題を孕んでいます。それは、メディアの性格の根源に触れる重大な問題だといえるでしょう。
なぜならば、この答えは、メディアが「予想されるトラブルに対して先んじて沈黙している」からです。つまりいいかえれば、メディアが「トラブル=クレームによって沈黙することを宣言している」のです。「公平・公正・中立」というスタンスが、実現不可能なユートピア的な主張であることは百も承知しています*1。しかし、こうまで圧力に対して屈することを明言するものが、はたしてメディアとして役割を果たしているといえるのでしょうか?
また、この意見については、文科省的「道徳」のスタンスから反論することも可能です。
それは、「友好」つまり「友達」関係についての考え方です。「ほんとうの友達」についての考え方です。
「お互いの悪いところをも指摘し合え、それを互いに聞き入れられるのが、「ほんとうの友達関係」、「友好関係」だ」というものです。これに対して異論は、まず無いでしょう。
あるいはもし、これを否定できるとすれば、先ごろ作られた新たな文科省的「新道徳」である「こころのノート」的な発想による、「悪いところは絶対的に否定し、いいところだけを取り出せるように矯正しなければならない」というものでしょうか。*2
そもそも人間とは、不完全な存在であることを忘れたかのような、この「新道徳」=「こころのノート」的発想を「真」とするなら、先の「都合のいいところだけを見る」という姿勢も、なるほど肯定されることとなります。
また、外務省的スタンスからの指摘を行えば、時に見かけられる「韓日友好」という表現は、国際的に見て「異常」なものだといえるでしょう。あくまで、主権国においてはそのメディアの帰属する主権国を先に表記することが「国際的慣例」であり、相手国の表記を先に行うなどということは、全くの無用の「配慮」なのです。ただし、先の「「韓日共催」ワールドカップ」においては、FIFAの公式協議において締結された表記であり、その意味では間違いではありません。ただし、公共メディアではない一般的な表現としては、「日韓共催」というほうが、よりストレートなものだとはいえるでしょう。
さらにまた、先にも指摘した「メディアは公平・公正・中立ではありえない」事を思い起こせば、「配慮」の過ぎる姿勢も、また真なりということも可能ですし、トラブルは常に付き物です。とはいえ、必要以上の「配慮」が、メディアの使命そのものを死に至らしめんとするガン細胞とならないとは、やはりいい切れません。
もちろん、これは勝手な予想であり、このような事が無いにこしたことはありません。

*1:のうのうとこれを掲げているのが、NHKなわけですが。

*2:ISBN:4874983219