漁夫の指輪とは

さて、このローマ法王死去のニュースに際して、キリスト教に無知な私が初めて聞いたのが、法王の権威の象徴である「漁夫の指輪」というものの存在だった。
「一つの指輪はすべてを統べる」といった、指輪物語の一句が思い出されなくもない。
さて、その由来はおそらくはと思ったが、こういうことらしい。

(3)ローマ法王・ヴァチカン
・イエスは弟子の一人シモンに云った。
「おまえはペテロ(岩)だ。この岩の上、わたしの教会を建てよう。地獄の門(悪魔)もこれに勝てないであろう。お前に天国の鍵を与えよう。これによって、お前が地上でつなぐものは
天国でもつながれ、お前が地上で解くものは天国でも解かれるのだ」
(マタイ伝 第16章より)
・こうして、かっては漁夫であったペテロの主位権が決まった。全キリスト者は、イエス・キリスト、すなわち神の、地上での代理人と指名されたペテロに、服従しなければならないと決められたのである。また、お前の上にとのイエスの言葉に従って、西暦67年頃、皇帝ネロの競技場で殉職したと伝えられるペテロの遺骸の上(今のヴァチカン)に、聖ペテロの教会(サン・ピエトロ大寺院)が建てられた(394年完成)、(コンスタンティヌス帝時代)
・それ以降、代々の法王は、第一代法王ペテロの後継者として、天国と地獄と地下を支配する象徴としての三重冠と、天国の鍵を組み合わせたものを紋章とし、漁夫の指輪をはめた手で命令をくだし、同じ手で祝福を与えつうけてきた。そして今日でも、法王が教会に入場してくる時、聖歌隊は「おまえはペテロ、この岩の上にわたしの教会を......」と歌う。
まるで法王のテーマ音楽であるかのように。 <塩野七生「神の代理人」より>
http://www5.big.or.jp/~n-gakkai/katsudou/reikai/199902_01.html

つまり、ローマ法王は、キリストの地上の代理人である「聖ペテロの後継者」であることの証として、元漁師であったことを示す紋章の入った「漁夫の指輪」を身に着けることを習いとしている、ということらしい。
そして、面白いことに、こうした伝統的かつ象徴的かつ権威的な聖具である「指輪」は、代々継承されるのではなく、法王が代わるごとに新しく作られ、そして、その死と同時に破壊されるというのだ。

教会法では教皇職は終身だが、自発的に辞任できる。辞任が自由に発意され、正しく表現されていれば有効であり、だれからも受理される必要はないと定めている。公式に教皇が退位を表明したときに使徒空位が発表される。ローマ教皇が死亡したときは、ローマ教皇庁国務長官教皇の名を3度呼び、教皇のひたいを銀の槌で打つなどの公式に教皇の死亡を確認する儀式を行った後、教皇があらかじめ指名した首席枢機卿教皇薨去使徒空位を発表する。漁夫の指輪と呼ばれる教皇の印章は死亡の際に破壊される。
ローマ教皇 - Wikipedia

「銀の槌でひたいを打つ」という死亡確認作法も興味深いが、そのことが、「銀の杭で胸を貫くことで死ぬ」とされるドラキュラとの関連はさだかではない。
キリスト教圏内において、「金は生、銀は死」という象徴的な伝統があるのだろうか。
それにしても、宝冠といい、あの衣装といい、指輪といい、聖杯といい、儀式作法のそこかしこに金銀がちりばめられた様子からは、キリスト教のあふれんばかりの豊かさがうかがい知れる。
それとも、権威とははやり財産に付随するものなのか。*1
とはいえ、日本仏教がそれをやっかむことには根拠がない。新新宗教もまた同じ。*2
むしろ、キリスト教の持つ社会的な慈善精神にこそ、着目し、見習うべきだろう。
まあ、これも聖と俗が入り混じった日本宗教の風土では難しいところだろうが。

*1:ま、逆だろうけど。

*2:どういうことかは言わずもがな